{{{{{ 鶴見緑地(大阪市)での花壇祭りから園芸業者と公園管理者の作品 }}}}}
さすがに手の込んだものが多く、手馴れた感じがする反面、花自体が材料化してしまい個々の味わいが稀薄になっているかもしれない。
大阪湾の環境 2.大阪湾の海域環境 「底質」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
底質の臨界値 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大阪湾において、海底に軟泥が厚く堆積している海域は、淀川河口およびその周辺の沿岸域であり、次いで湾中央部の水深20~30mの範囲である。軟泥層の厚さは、堆積物の溜まり易さを表しており、有機物や栄養塩を含む海底泥は、湾奥部を中心に和田岬から泉南にかけての水深20m以浅の海域に分布している。 海底泥は、海水に懸濁していた物質が沈降し長い間堆積したものであるため、底質分布は、海水の汚濁状況を反映していることにもなる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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8世紀 | 中部ジャワに、仏教国シャイレンドラ王朝が起こり、ボロブドゥール等の有名な仏跡を残す。 |
13世紀初め | イスラム文化・イスラム教の渡来。北スマトラのアチェ地方に最初のイスラム小王国が現れる。 |
1596年 | オランダの商船隊、西部ジャワのバンタム港に渡来。 |
1602年 | オランダ、ジャワに東インド会社を設立。 |
1799年 | オランダ、東インド会社を解散、インドネシアを直接統治下におくものの、実権は英国が握る。 |
1945年 | 8月17日インドネシア独立宣言 |
1955年 | バンドンで「アジア・アフリカ会議」開催。 |
■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■ ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、 4年5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、 特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。 この中に11名の日本人が一緒に手厚く葬られています。 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、 インドネシア 独立義勇軍に身を投じた人々は、 1~2千人程度と推定されています。 400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に祀られているのです。 また独立50周年となった平成7年、残留日本兵69名に対し、 渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハルト大統領(当時)は官邸に招いて、 お礼を述べられました。 これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのでしょうか・・・。 ■2.独立への願い■ インドネシアがオランダの植民地となったのは、 1605年、それ以来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が 全生産額の65%を独占するという収奪が続きます。 『1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた 西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を 強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展 する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。』 独立を願う民衆の間には、いつしか、 「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに (約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生ました。 ■3.独立を戦いとれる実力を■ その予言は、1942年3月1日に現実のものとなったのです。 今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行しました。 攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたのですが、 わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。 予言を信じた現地人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、 積極的に日本軍の進撃を助けたからなんです。 独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた 今村中将は、次のように言って、彼らを支援しました。 「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、 われわれの仕事だ、、、」 それから、独立国への準備が始まります。 300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、 州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、 さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成しました。 これらの人々が後の独立戦争の主役となっていくのです。 ■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■ 日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは すかさず独立宣言を行います。 18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任しました。 しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、 「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、 治安を確保すべし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、 暴動は必ず鎮圧すべし」 と命令したのです。さらに 「原住民の集会禁止、武器の 携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。 これがためには、兵器の使用も可である。」 との命令が来ます。降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのです。 一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、 何としても日本軍が保有している武器が必要でした。 今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えたのです。 独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、 日本軍の施設を襲う事件も起きます。 しかし、日本軍は断じて 「撃つな、指導者と話し合え」 と厳命を下しました。暴徒に銃殺された日本人のなかには、 「インドネシアの独立に栄光あれ」 と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、 現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されているといいます。 ■5.独立戦争への支援■ 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する人々が現れました。 中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、それを拡大解釈して、 トラック何台分もの武器をチレボン河の河原に捨てました。 対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れるということもありました。 こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、 中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。 自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多くいました。 その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手でした。 スマトラのアチエ州で、地元の青年達を「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育します。 昭和天皇の終戦の詔勅の中の 「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」 という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、 同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加したのです。 戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をしました。 オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続きました。 兵員こそ200万人もいましたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心です。 オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、 1千万人を超える負傷者が出たと言われています。 インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、 国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行い、 全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのです。 ■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■ 平成7年5月29日、戦後50年を記念して、 「アジア共生の祭典」が開かれました。 ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアからは、 スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを 歴任したサイデマン外務省上級大使が参列されました。 サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶 をされました。 「第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、 外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。 私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインド ネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦っ てくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧 げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私た ちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たち を偲びたいと思います。」 「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるの が、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となったのであります。
トントンお寺の道成寺
釣鐘下(お)ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて 一廻(まわ)り 一廻り
清姫は語る 日本「国つ神」情念史1 | |||
日本図書館協会選定図書 | |||
平安期半ばの仏教説話集に、「紀伊国牟婁郡の悪女」として名もなく登場した一人の女性。室町期、能では白拍子・遊女の姿に、絵草子では「花ひめ」と姿をかえ、そして江戸中期、民衆芸能によって美しく高められたヒロイン「清姫」として復活する。その姿の背景になにがみえるか、この国の歴史の伏流のなかに読み解く。
第 I 部 清姫は語る―鉱床秘図
紀州の女/真砂―古代採鉱民の里/安珍と鉱の道/安珍 二重の裏切り/姉性の怒り/南紀龍蛇族/道行き熊野比丘尼/日高川と白馬山脈/釣鐘―タタラ炉は点火された/道成寺二体本尊の謎 ほか 第 II 部 清姫さんへの七つの手紙
三つのシンボルと、情念/癒しと鎮魂のシンボル〈桜〉/鐘に恨みは……/天皇の剣を奪りかえす〈大蛇〉/情念史へのヒント―蛇なる母「国つ神」をうたう田植唄 ほか 第 III 部 「清姫」への道
隠された血涙―清姫伝承の情念史的構造 初出文献『法華験記』を中心に/「清姫」という名の由来をさぐる/「鉄杖」をかざしていどむ《清姫》―能・歌舞伎の採物「打杖」が語るもの/道成寺の南面本尊と「ねずみ」/母性・姉性・妹性―「姉性」の審きと清姫 ほか 第 IV 部 悪女の系譜
イワナガヒメ―「悪女」の発生/斥けられるものの実体/「岩」女の流れ/「岩・花」統合への志向と 「娘道成寺」「清姫という名」のもつ意味/「悪女」は消えたか 〔清姫伝承の展開一覧表〕人名・地名・内容―文献による異同 津名道代(つなみちよ)
1933年(昭和8)8月21日和歌山県海草郡川永村川辺に生まれる。 1943年(昭和18)12月、猩紅熱により聴力のほとんどを失う。
1956年(昭和31)奈良女子大学文学部史学科卒業。専攻・日本思想史。同大文学部助手、同大学付属図書館司書。
1965年(昭和40)退職帰農。傍ら文筆と塾主宰。その間、1971~83年神戸松蔭女子学院大学非常勤講師として日本宗教史を担当。
1965年以降、障害者問題にも関わり、1976年からは全国難聴者連絡協議会(略称・全難聴。現・社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会)の創立に参加。広報部長兼機関紙編集長、常任理事、副会長、相談役を歴任
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南紀白浜から国道311号線を行く熊野本宮大社への約70kmの谷間の道は、熊野権現九十九王子を祀る社や祠の鎮座する古道とも平行している。 しかし、社などを訪ねる山中を巡る古道は大半が徒歩で行く山道だ。 | 舗装だが道は狭い中辺路のドライブ |
中辺路の歩道標示 | 熊野川 |
熊野道の古い標示 | 本道を外れても旧・中辺路は さらに山中だった |
歌舞伎の演目となっている「娘道成寺」、安珍・清姫の物語は、中辺路の真砂(まなご)という集落にあった伝説といわれている。
その物語は、平安の昔のこと。奥州に安珍という美形の若い僧呂がいた。彼は毎年熊野詣でをするため、真砂の庄司の館に宿をとっていた。 その家の娘、清姫は安珍を追う。道成寺の鐘に隠れた安珍を大蛇となった清姫は、鐘を我が身で巻き、鐘とともに安珍を焼き殺すという物語。
全くの架空話ではないが、幾分異なった物語は他にもいくつかある。
真砂の富田川のほとりに清姫の石塔があるが、この地が清姫誕生の地と書かれた案内版もあった。墓に隣り合わせに建つ薬師堂は耳の病に霊験があるそうだ。
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富田川のほとりに清姫の墓はある | 清姫の墓 |