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[転載]イギリス東インド会社

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イギリス東インド会社

 イギリス東インド会社 (English East India Company) はアジアとの貿易を目的に設立されたイギリス特許会社
 厳密には「イギリス東インド会社」という一つの会社組織が存在した訳ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。東インド会社以前にも特許会社は存在したが、貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、自前の従業員を持つ合本会社 (Joint Stock Company) として設立された。
 当初は香辛料貿易で利益を得たが、アンボイナ事件後、東南アジアでの活動を縮小しつつも、活動の重心をインドに移し、フランス東インド会社と争った。最終的に七年戦争でイギリスがフランスに勝利し、インドにおける覇権を決定づけた後はベンガル地方の徴税権取得を皮切りに、次第に政治的、領域的支配組織に変化していった。
 1858年、インド大反乱の責を負う形でインド統治権をイギリス政府に譲渡し、1870年代半ばに解散。なお、現在でも東インド会社の名を冠した紅茶が販売されているが、これは1978年に紅茶販売のため、紋章院の許可を得て設立された会社である。
 
概説
 17世紀から19世紀半ばにかけてアジア貿易の独占権を認められ、各地の植民交易に従事した。初期には東インド(インドネシア)での香辛料貿易参入をめざしてジャワ島バンテンインドスラトに拠点を置き、マレー半島パタニ王国タイアユタヤ、日本の平戸台湾安平にも商館を設けたが、スペイン、オランダ、イギリスの3国間のアジアの海域の覇権をめぐる争いにおいてはオランダと友好関係を保つ事を重視した。その後、インドに注力するようになった。
 
 インドにおける会社の大拠点はベンガルカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。1757年プラッシーの戦いで、会社はフランス東インド会社の挑戦を退けた(ただし、この戦いはあくまでもベンガル太守スィーラジュ・アッダウラとイギリス東インド会社との間の衝突であることを理解する必要がある)。この戦いを契機に、単なる商事会社のみならずインド全域における覇権を確立した行政機構としての性格をも帯びるようになった。
 
 その後の動向として、ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、インド大反乱(シパーヒーの乱)によってインドの支配権をヴィクトリア女王に返上し、1874年に解散した。

歴史

特権会社のはじまり

チェンナイのセント・ジョージ要塞
 
 1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった。
 また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海モスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年オランダジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。
 
 レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。
 そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で新会社が設立されることとなった。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めたこの航海は成功に終わった。
 
 その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本平戸に商館を設置した。
 1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした。
 しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された。
 
 とはいえ、1623年アンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイランサファヴィー朝)へ移っていった。今日では、アンボイナ事件における歴史的意義が見直されており、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説は否定されている[4]。あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンen:Jan Pieterszoon Coen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならない。
 
 1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された。
 当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。
 1657年オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった。
 
ジョサイア・チャイルド
 
 1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好況が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。
 東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引も横行する状況でもあった。その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルドen:Josiah Child)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引を駆使し、巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。
 しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命令により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合同された。
 
 主要年表

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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