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[転載]阿片戦争  英国イヤシイワ「こんな恥さらしな戦争はない」

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阿片戦争

 
阿片戦争衝突した勢力指揮官
鸦片战争.png

阿片戦争戦況図(中文版ウィキペディアより)
時場所結果
1840年6月28日 - 1842年8月29日
(現在の中国虎門
イギリスの勝利
China Qing Dynasty Flag 1862.pngFlag of the United Kingdom.svgイギリス
China Qing Dynasty Flag 1862.png道光帝Flag of the United Kingdom.svgチャールズ・エリオット
Flag of the United Kingdom.svgヘンリー・ポッティンジャー
 阿片戦争(アヘンせんそう、: First Opium War, First Anglo-Chinese War)は、イギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、イギリスのアヘンの密輸が原因となった戦争である。
 開戦年は英国イヤシイワと覚えやすい。
 
戦争に至った経緯

アヘン貿易

 当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、陶磁器を大量に清から輸入していた。一方、イギリスからへ輸出されるものは時計望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。
 イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地インドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
 
 清では、既に1796年嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、また国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。
 また、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し銀の高騰を招いた。

アヘン取締

 この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要はアヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い、というものである。
 この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝1838年林則徐欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
 
 林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって処分した(その化学反応で発生した煙によって、焼却処分したと庶民の間では伝承されてきた)。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
 
 イギリスの監察官チャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。
 これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。

戦争勃発

 1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の議会でも、野党保守党ウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した(そのグラッドストン自身も実はアヘン製剤の常用者であった)。
 
 艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた清政府は(政権内の権力闘争も加わって)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。
 
 1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。清政府はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃を開始した。虎門の戦いでは関天培らが奮戦するもイギリス側は完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。
 
 1841年5月、広州に上陸した英軍は略奪や暴行事件を起こして民衆の怒りを買い、正規軍である八旗兵ではなく、三元里と周辺の郷村の一万余の民衆が決起して「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃した。 折からの豪雨で英軍は火器が使用できない状態で、刀や矛で襲いかかる三元里住民の攻撃に対して銃剣で防戦するも、英軍は全滅の危機に晒された。 英軍は広州の清朝政府に包囲の解除を求め、からくも脱出に成功した(三元里事件)。

終戦後の推移

 1842年8月29日、両国は江寧(南京)条約に調印し、阿片戦争は終結した。この条約で清は多額の賠償金香港の割譲、広東厦門福州寧波上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。
 このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。
 
 この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。 しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的「全ての中国人にイギリス製の靴下を履かせる」という目論見は達成されなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。
 
 
 
戦争の余波

清への影響

 イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に海国図志を著した。
 「夷の長技を師とし以て夷を制す」という一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。
 ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業(例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなそれ)ではなかったので、魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、中国社会全体には大して影響を及ぼさなかった。

銀の高騰

 アヘンの輸入量は1800~01年の約4500箱(一箱約60kg)から1830~31年には2万箱、アヘン戦争前夜の1838~39年には約4万箱に達した。
 このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出したという。こうした銀の大量流出は国内の銀流通量を著しく減少させ銀貨の高騰をもたらす。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1両(約37g)は銅銭700~800文と交換されていたが、1830年には1200文となり30年代末には最大で2000文に達した。また、地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であったため、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。
 したがって銀貨が倍に高騰するということは納税額が倍に増えることに等しかったのである。

日本への影響

 阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。
 以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。そのため魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。
 天保14年(1843年)には昌平黌にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。それまで異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は、この戦争結果に驚愕し、天保13年(1842年)薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。この幕府の対外軟化がやがて開国の大きな要因となり、のち明治維新を経て日本の近代化へとつながることになった。
 

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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