歌聖・人麻呂の没落とその晩年
すぐれた挽歌をいくつも残している人麻呂なのに、
すぐれた挽歌をいくつも残している人麻呂なのに、
自分のもっとも大事なパトロンであった持統天皇を悼む歌をひとつも詠まなかったのはなぜだろうか。
私には、この謎の背景に、天皇の死と同時に、宮廷から追い出された人麻呂の後姿が見えてきてならない。
人麻呂の晩年の歌作年代を見ると、持統天皇が亡くなる前の年からあとのものはまったく見当たらない。
人麻呂自身の死に臨んで詠んだ歌(巻2323)が、和銅元年から3年までの間(707~709年)の作と推定されているだけで、
大宝元年(701年)、つまり、持統天皇が亡くなる前年以後のものは、不思議なことに、ひとつも見当たらないのである。
このことは、人麻呂の没落と持統天皇の崩御がきわめて密接にからみ合っていることを十分物語っているのではなかろうか。
ところで、持統天皇が崩御された702年とは、一体どのような年であったのだろうか。
まず、万葉の著名な歌人たちの生存のいかんから見てみよう。
万葉集編纂の主役である大伴家持は、生まれたのが718年(一説には715年)なので、この年にはまだ生存していない。
また、人麻呂と並んで歌聖と言われるようになる山部赤人が生まれるのも、ずっとあとのことである。
一方、家持の父、大伴旅人は37歳の男盛りであり、山上憶良は43歳で、初老の角に立っている。
万葉の才女額田王は、生年と没年は明らかではないが、
彼女が天武天皇との間に生んだ十市皇女の子である葛野王の生年から逆に推定すれば、
635年前後(異説もある)に生まれたと考えられる。
したがって、もし彼女が生きていたとすれば、この年にほ67歳のお婆さんになっていたはずである。
この年、すでに52歳になっていた人麻呂は、名家の族長であり、朝廷の重臣であった大伴旅人や、
山上憶良と宮殿で顔を合わせることも、たびたびあったにちがいない。
にもかかわらず、彼らの間でたがいに唱和し合った歌がないのは、
それだけ人麻呂が宮中において孤独な存在であったことを物語っているのではないか。
次に702年のヤマト国の社会の動きに目を転じてみよう。
この年、ヤマト国では隼人の大乱が起こり、社会が騒然となっている。
隼人の乱がはじめて起こったのは700年(文武4年)のことであるが、
そのときは大したことにはならずすぐに平定されている。
二度目に起きた702年の反乱も、短期間に鎮圧されてはいる。
しかし、このような朝廷に対する隼人の相次ぐ反乱は、当時の社会に大きな動揺を巻き起こした。
このあとも隼人の乱はたびかさなり、家持の祖父である大伴安麻呂の出動(722年)と、
家持の父、旅人の出動(720年)を仰ぐことになるが、
その頃はすでに人麻呂がこの世を去ったあとである。
このような702年という年に、人麻呂は宮廷を追われたと思われる。
百済から逃げてきた身でありながら、天皇の寵愛を独り占めしている詩人が、
慶尚道方言(伽耶・新羅方言)を使う朝廷の宮人たちの目には、
苦々しくも、ねたましい存在として映ったとしても何ら不思議ではない。
だからこそ、持統天皇というパトロンの死去は、ただちに人麻呂の宮廷からの追放につながったにちがいないのである。
宮廷から追われた人麻呂に与えられた職責は何だったのだろう。
それをたしかめるすべは残されてはいない。
ただ、彼の死んだ場所が、斉藤茂吉氏の指摘している、石見国邑智郡邑智町江川岸にある鴨山であるとしたら、
次のように考えることはできないだろうか。
当時、石見国は大和政権にとって重大な鉄の産出国であった。
そこに派遣された人麻呂は石見国から採れる鉄の検分や、
それを都まで護送する任務を与えられていたのではないかと私は思う。
鉄のような重い荷物は交通の不便な陸路で運搬するより、
船で運んだはうがよほど効率的であったにちがいない。
…朴 炳植著「柿本人麻呂と壬申の乱の影」より