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[転載]益田市一帯の海岸には古くから今日にいたるまで、韓半島からおびただしい数の漂流物が、打ち上げられている

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人麻呂のように、韓半島から脱出し、日本へ渡来する人々の数は、当時かなりのものであった。
たとえば「昔」姓の人々が日本に渡来したのちに残した姓氏だけを見ても、
現在、12万にものぼる日本の姓氏のうち、第56位を占めていることに驚かざるを得ない。
 
日本へ渡来した「昔」姓を名乗る人々は、群れをなして同じ地域に定着するようになった。
彼らの住みついた地域には「席田」、つまり、「すくなの地」という地名がつけられるようになっていった。
ところが、年代が下がるにつれて、「席」を「むしろ」と誤って読むようになったので、
「席田」と書いて「むしろた」と呼ぶようになった。
 
それが、筑前(福岡)の「席田郡(むしろだこおり)」と美濃(岐阜)の「席田郡」である。
 
このように、当時、韓半島から渡来した人々が「席田郡」に定住した事実は、『続日本紀』に残された次のような記録にもあらわれている。
ひとつは、元明霊亀元年秋七月条に、
「尾張の人外従八位席田君迩近(むしろだのきみじこん)および新羅人七十四家を美濃国に貫(とお)して、始めて席田郡を建つ」
とある。
 
もうひとつは淳仁天平宝字一年冬十月二十八日条に、
「美濃国席田郡(むしろだこおり)大領外正七位上子人、中衛尤位吾志らもうす。子人らの六世の祖父乎留和斯知(をるわしち)、賀羅国(からのくに)より化を慕ひて来朝せり。当時あまだ風俗になれず、姓氏をつけず、望むらくは国号にしたがひて姓字をこうむりたまわんことを、と。姓賀羅造(からのみやっこ)とたまふ」とある。
 
これらについて吉田東伍氏は、その著者『大日本地名辞書』(冨山房)の中で、次のような見解を述べている。
まず元明紀にある記録については、
「(元明紀)席田君の氏号によりて、席田の郡名を命ぜらるる如くに載せられる、これ恐らくは誤れる。席田君の旧姓は今つまびらかにし難しと雖も、新羅人の曾長にて、蕃別の君なり、この地に郡をたてて、席田の名を得たるより、その氏号を席田君と賜へるにて、旧史の記載この事情を混乱す」
と述べている。次に淳仁紀にある記録については、
「子人は上に(元明紀に)言へる席田君迩近の子孫たること推知せらるるに、不著姓字とあれば、元明紀の席田君ほは全く史家の追筆に出づ。この大領賀羅造の氏神は、当国帳、席田郡正六位下韓明神とあるこれなり」
と述べている。
 
つまり、吉田氏は、席田郡に住むようになったのは、賀羅(加羅、のちの新羅)から渡来した人々であった、と証言しているのである。
すなわち、彼らは、「出身地名をもってその姓にしたい」と願い、賀羅の姓を名乗った、というのである。
ところで、当時の人々が出身地名をもってみずからの姓にしたいという願望をもっていたことは、
「菅原」氏に関する記録からも確められる。
 
すなわち、『続日本紀』の桓武天応元年六月二十五日条と延暦元年五月二十一日条には、おおよそ次のような内容の記録が残されている。
 
土師(はじし)の先祖は天穂日命で、その14世の孫、野打宿祢(のみのすく、)は殉死の悪習をなくするために、出雲国から土部(はにべ)三百余人をつれてきて、いろいろなものの形の埴輪をつくって天皇にさしあげた。
……中略……その子孫たちは職業により姓「土師(はじし)」を与えられていたが、昔住んでいたところの地名を姓にしたいと願いでたので「菅原(すがをら)」の姓を許した。
 
この記録にしたがえば、土師の「前居住地」は「出雲国」であるから、
地名を姓にするなら「いずも」氏としなければならないはずである。
にもかかわらず、どうして「すがはら」になったのだろうか……
実は、「非常な山間地」を意味する出雲という地名は、この地域に与えられた別名で、
本名は「すくな」、つまり「すく=好きな・良い」+「な=土地」であったのである。
 
出雲が「昔(すく)」氏の出身地であったことはすでに述べた通りである。
この「すくな」が音韻変化して「すがはら」になったのである。
すなわち、「すがはら」の「すが」は、「蘇我(そが)」と同じく「すく」の母音交替形であり、「はら」は「な」と同じく、土地という意味である。
 
ちなみに、「出雲」が「山間」であることは、「出雲」にかかる枕詞によってもたしかめられる。
普通、「出雲」にかかる枕詞というと、「やぐもたつ」を思い出すであろう。
ところがそのほかにもうひとつ、「山の間ゆ」という枕詞があることを忘れてはならない。
 
次の歌をご覧いただきたい。
 
「溺れ死んだ出雲娘子を青野山に火葬したときに、柿本人麻呂が詠んだ歌」
山の間(ま)ゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 蜂にたなびく
(巻3-429)
 
やくもさす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ
(巻3-430)
 
「やくもさす」は、神代紀の「やくもたつ」、景行紀の「やつめさす」と同じ言葉で、「非常に遠いと言われる」という意味をもっている。
このように、出雲というのは、記紀において「非常に遠く離れた土地」だと認識されていたところから、
「山の間ゆ」や「やくもさす」という枕詞が発生したということがわかる。
 
出雲の本名である「すくな」を出身地とする人々の姓が、今日どのように表記されているかというと、
「世喜」「勢木」「千木」「堰」「尺」「席」「石」「碩」「積」「関」
などである。
 
これらの姓の全体数は、丹羽基二著『姓千の語源』によれば、
ほぼ12万にものぼる日本の姓氏のうち、第56位を占めていることがわかる。
それにくらべると、韓国における「昔」姓氏は、ほぼ250ある姓氏のうち、第111位にしかならない。
このことは、新羅の「昔」姓の人々の、韓半島脱出が、当時かなり大規模なものであったことを物語っているだけでなく、
彼らを含む渡来者の数が我々の想像を絶するほど大きかったことをも示している。
 
 
 

益田市の高津町には立派な柿本神社がある。
縁起によれば、この神社は延宝9年(1681年、天和元年と同じ)に亀井藩主の手によって再建されたもので、元来の社殿は万寿3年(1026年)の断層地震による大津波で海中に陥落したと言われている。
 
したがって、柿本神社の創建はかなり古いものであると思われる。
 
ちなみに、人麻呂が生まれたところだと地元の人に言われている戸田にも柿本神社がある。
 
この益田市一帯の海岸には古くから今日にいたるまで、韓半島からおびただしい数の漂流物が、打ち上げられている。
 
このことによっても、私の人麻呂漂着説は裏づけられる。
人麻呂の出自を証言するものがもうひとつある。
 
それは「略体歌」と言われている、人麻呂独特の歌の表記方法である。
この「略体歌」の特徴は、「助詞・助動詞がなく、一音一字の形式をとらない」ということである。
次にあげる人麻呂と家持の歌を比較してみよう。
 
「略体歌」 巻7-1294(柿本人麻呂の施頭歌読みは、澤瀉久孝氏の『万葉集注釈』による)
朝月 日向山 月立所見 遠妻 持在人 看乍偲

(朝月の 日向(ひむか)の山に 月立てり見ゆ 遠妻を 持ちたる人は 見つつ偲はむ)
「非略体歌」 巻6-994(大伴家持の歌)
 
振仰而 若月見者 一目見え 人之眉引 所念可聞
(振りさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引(まよびき) 思ほゆるかも)
巻18-4114(大伴家持の歌)
 
奈泥之故我 花見流其等尓 釆登女良我 恵末比能尓保比 於母保由流可母
(なでしこが 花見る毎(ごと)に 少女らが 笑まひのにはひ 思ほゆるかも) 
これらを見てわかるように、「略体歌」は、漢字の訓をもって表現されたものである。
 
これに対して「非略体歌」は、漢字の訓と音を混用したり、音だけを借りて表記されているもので、「てにをは」が使用されていることがわかる。
 
人麻呂の場合は、初期の歌、すなわち日本に渡来した当初の歌は「略体歌」であったが、
のちになってしだいに「てにをは」を使う形式をとるようになっていく。
 
一方、大伴家持の場合は、16歳のときに詠まれたという初期の歌(巻6-994)にも、すでに「てにをは」が使われており、
末期になると一音一字の形式が断然多くなっている。
 
そこで、漢字の訓で表記された人麻呂の歌をさらによく検討してみると、
それらは、「中国の漢文式表記ではない」ことに気づかされる。
 
このように、漢字を用いながらも、実際には漢文になっていない表記の仕方を、「吏読(りとう)」という。
この形式をはじめて採用したのは高句麗で、その後しだいに百済でも使用されるようになり……
かなり遅れて新羅にも伝わっている。

…朴 炳植著「柿本人麻呂と壬申の乱の影」より
 
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転載元: 日本一の清流高津川や益田市の環境や歴史を勉強中


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