清仏戦争
日本で描かれた歌川国貞作の「清仏戦争図」(上)とフランス軍事博物館所蔵の「ランソン攻勢」(下) | ||
戦争:清仏戦争 | ||
年月日:1884年-1885年 | ||
場所:ベトナム北部、華南、台湾 | ||
結果:アンナン・トンキンの仏領化 | ||
フランス | 清 黒旗軍 阮朝 | |
アメデ・クールベ アンリ・リビエール | 張佩綸 馮子材 唐景 劉銘伝 劉永福 | |
15,000-20,000 | 25,000-35,000 | |
2,100 | 10,000 | |
- 大南
- 大南
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←1802年 - 1945年 →
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→(国旗) - 国歌: 登壇宮(en)
安南大國畫圖(1838年)公用語 ベトナム語 首都 富春 阮朝(グエンちょう、げんちょう、越:Nhà Nguyễn/家阮)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。自国を指す美称は中国(チュンコック)。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。歴史
前史(広南阮氏時代)
阮朝の初代皇帝、嘉隆帝(阮福暎、阮映)は、黎朝大越国(中興黎朝、後期黎朝:1532年-1789年)の時代に現在の中南部ベトナムを支配していた地方王権、広南阮氏(阮氏広南国)の出身である。 後期黎朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナムのトンキン(東京)地方を支配する鄭氏(鄭王)と、南の広南阮氏(阮主)という二大地方王権が分立し、両者は霊江(ザイン川 sông Gianh)を国境として対峙していた。この南北両国を、当時の口語史料はスーダンゴアイ (Xứ Đàng Ngoài) またはスーダンチョン (Xứ Đàng Trong) と呼び、文語史料は北河/南河、中国や日本の史料は東京国(交趾国)/広南国と呼ぶ。また、欧文史料はトンキンやコーチシナと呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独自の国号や帝号、年号を持つことはなかった。広南阮氏が鎮圧に手間取る中、トンキンの鄭氏はこれを好機と見て大挙して南下し、1774年に首都富春(フースアン Phú Xuân、今のフエ市キンタイン地域)が陥落し、当主阮福淳(睿宗)は南部に脱出した。阮氏三兄弟(西山(タイソン)阮氏)は鄭氏に降伏し、広南阮氏残党の討伐を行った。建国
広南阮氏の滅亡により、黎朝下の南北両国は名目上は鄭氏の権勢の下に統一されたが(「皇黎一統」)、実際には広南阮氏の旧領は西山阮氏三兄弟が占有しており、南北対立の構図は変わらず、南方の王者が中部北方富春の広南阮氏から中部南方帰仁(クイニョン)の阮文岳(西山阮氏長兄、泰徳帝)に変わっただけであった。広南阮氏消滅後、西山阮氏末弟の阮文恵は黎朝の政局に介入し、鄭氏・黎朝を倒して首都を富春に移し、新王朝の西山朝(対内的国号は大越、対外的国号は安南のまま)を樹立したが、これも北方の王者が北部の鄭氏(黎氏)から中部北方の阮文恵(光中帝)に変わっただけで、南北分立の構図はそのままであった。結局、西山朝の南北両朝廷(帰仁朝廷・富春朝廷)もまた対峙・抗争に突入した。1777年以後、シャムに亡命していた阮氏の生き残り阮福暎は、シャム王やフランス人宣教師などの支援を受け、粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。1802年に首都を中部北方の富春(現在のフエ)に定め、広南阮氏を再興(ただし、1802年以後は越南阮朝と称する)、年号を嘉隆と改めた(この年号は南の嘉定の「嘉」と北の昇隆の「隆」を統合した象徴とされる)。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」(南に越の国がある。この国は大きくて、南の天下を支配している)号を求めたが、嘉慶帝は「越南」(中国のはるか南方の僻地に越がある。さらにその南方にある国である)という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。国号・国是と年号は国内の公文書の冒頭に必ず記載された。フランスとの抗争
産業革命を経験したヨーロッパでは通商貿易の拡大を求めアジア市場に進出、17世紀初めにはベトナムに通商を求める使者が訪問している。フランスは当初、フランス革命やナポレオン戦争の影響で、阮朝建国でアドラン司教のピニョーらが活躍した後、しばらくベトナムとの交渉がなかったが、ナポレオン戦争終了後は通商関係を求めてベトナムに使者を派遣している。嘉隆帝は建国の功績を認めフランス人を優遇していたが、通商要求に対しては一貫して拒否していた。さらに、明命帝の時代になると、次第にフランス人に対する優遇措置も認められなくなり、1826年には開国を求めるフランス軍艦の艦長との引見を拒否、1826年にはやはり建国の際の功績者であるフランス人ショニーの甥が領事資格で訪越したがこれも拒否し、ベトナムとフランスの公的関係は一時中断している。さらにこの時期、キリスト教迫害が越仏関係を悪化させた。もともと儒教的な統治を理想とする阮朝は、祖先崇拝を否定するキリスト教に違和感を有していた。しかし、建国の際にフランス人司教ピニョーの支援を受けていたため、当初はキリスト教を保護していたものの、ピニョーの死後は一転して冷遇するようになった。明命帝が即位するとキリスト教に対する弾圧が実施され、1836年にはヨーロッパ人宣教師 7名が死刑となり、数百の教会が破壊、弾圧を恐れた数万の民衆が山野に逃れている。その後、- 国歌: 登壇宮(en)