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[転載]清仏戦争(1884年)。サイゴン条約は1862年に阮朝越南国とフランスの間で結ばれた不平等条約。阮朝1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。

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清仏戦争

 
清仏戦争交戦勢力指揮官戦力損害
 清仏戦争(しんふつせんそう、英語: Sino-French War中国語: 中法戰争ベトナム語: Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清フランス語: Guerre franco-chinoise)は、1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスとの間の戦争
 フランスでは戦争の遂行目的(領土領有)を結果的に達成したため、この戦争を「フランス軍の勝利」と捕らえるのが一般的である。しかしフランス軍は戦争中、幾つかの重要な戦いで質的に劣る清軍に敗北しており、軽視できない損害を出した。また講和も戦勝によってではなく、イギリスと清軍穏健派の手引きによって成立した側面が強い。
 
 
 
 

サイゴン条約

 
 サイゴン条約ベトナム語: Hòa ước Nhâm Tuất)とは、1862年阮朝越南国とフランスの間で結ばれた条約。壬戌条約とも称する。この条約を第1次サイゴン条約と称し、1874年に結ばれた条約(甲戌条約)を第2次サイゴン条約と表記することもある。

背景

 1858年、スペイン宣教師2名の処刑を理由として、フランスとスペインはツーランに軍を派遣した。その後フエの攻略も図るが行き詰まり、コーチシナサイゴンを本格的に攻撃することになった。
 1861年にフランスが提示した講和条件を阮朝が拒んだため、さらにブエンホアを占領するなど軍事行動を継続し、軍艦をフエに向かわせた。この結果、ファン・タイン・ザンラム・ズイ・ヒエップを中心とする使節団がサイゴンに派遣され、1862年6月5日にサイゴン条約が成立した。

内容

以上の内容などを含む全12項目が定められた。
 
 
 

阮朝

 
SinoFrench war Japanese depiction.jpg
CaptureOfLang-Son.jpg
日本で描かれた歌川国貞作の「清仏戦争図」(上)とフランス軍事博物館所蔵の「ランソン攻勢」(下)
戦争:清仏戦争
年月日:1884年-1885年
場所ベトナム北部、華南台湾
結果アンナントンキンの仏領化
フランスの旗フランス清の旗
Black Flag Army Flag.jpg黒旗軍
Early Nguyen Dynasty Flag.svg阮朝
フランスの旗アメデ・クールベ
フランスの旗アンリ・リビエール
China Qing Dynasty Flag 1862.png張佩綸
China Qing Dynasty Flag 1862.png馮子材
China Qing Dynasty Flag 1862.png唐景
China Qing Dynasty Flag 1862.png劉銘伝
Black Flag Army Flag.jpg劉永福
15,000-20,00025,000-35,000
2,10010,000
清仏戦争
大南
大南
西山朝
チャンパ王国
1802年 - 1945年安南
コーチシナ
トンキン
阮朝の国旗
(国旗)
国歌: 登壇宮en
阮朝の位置
安南大國畫圖(1838年)
公用語首都通貨
ベトナム語
富春
皇帝
1802年 - 1820年1926年 - 1945年
嘉隆帝
保大帝
変遷
嘉隆帝の即位フランスの侵攻インドシナ連邦に編入日本仏印進駐保大帝の退位
1802年6月1日
1858年9月1日
1887年10月17日
1940年9月22日
1945年8月30日
en
ベトナムの歴史
ベトナムの歴史






伝説時代
(甌雒国)
北属期南越統治)
徴氏姉妹






北属期
六朝統治)

前李朝
北属期統治)
梅叔鸞





北属期南漢統治)
楊廷芸矯公羨
呉朝
十二使君時代
丁朝
前黎朝
李朝






陳朝
胡朝
後陳朝
北属期統治)
後黎朝前期
莫朝
後黎朝後期莫朝
鄭氏政権阮氏政権
西山朝
阮朝
フランス領インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
ベトナム社会主義共和国
 
 阮朝(グエンちょう、げんちょう、Nhà Nguyễn家阮)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナム王朝である。自国を指す美称は中国(チュンコック)。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。
 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南阮氏の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都はフエ(トゥアンホア/順化、フースアン/富春)。
 

歴史

前史(広南阮氏時代)

 阮朝の初代皇帝、嘉隆帝(阮福暎、阮映)は、黎朝大越国(中興黎朝、後期黎朝:1532年-1789年)の時代に現在の中南部ベトナムを支配していた地方王権、広南阮氏(阮氏広南国英語版)の出身である。 後期黎朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナムのトンキン(東京)地方を支配する鄭氏(鄭王)と、南の広南阮氏(阮主)という二大地方王権が分立し、両者は霊江(ザイン川 sông Gianh)を国境として対峙していた。
 この南北両国を、当時の口語史料はスーダンゴアイ (Xứ Đàng Ngoài) またはスーダンチョン (Xứ Đàng Trong) と呼び、文語史料は北河/南河、中国日本の史料は東京国(交趾国)/広南国と呼ぶ。また、欧文史料はトンキンやコーチシナと呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独自の国号や帝号、年号を持つことはなかった。
 
 
 1771年、平定(ビンディン)で阮文岳・阮文侶・阮文恵の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。
 広南阮氏が鎮圧に手間取る中、トンキンの鄭氏はこれを好機と見て大挙して南下し、1774年に首都富春(フースアン Phú Xuân、今のフエ市キンタイン地域)が陥落し、当主阮福淳(睿宗)は南部に脱出した。阮氏三兄弟(西山(タイソン)阮氏)は鄭氏に降伏し、広南阮氏残党の討伐を行った。
 
 1777年には南部嘉定(ザーディン Gia Định、現ホーチミン市)が陥落し、ほとんどの王族が殺害されて広南阮氏は滅亡した。

建国

 広南阮氏の滅亡により、黎朝下の南北両国は名目上は鄭氏の権勢の下に統一されたが(「皇黎一統」)、実際には広南阮氏の旧領は西山阮氏三兄弟が占有しており、南北対立の構図は変わらず、南方の王者が中部北方富春の広南阮氏から中部南方帰仁(クイニョン)の阮文岳(西山阮氏長兄、泰徳帝)に変わっただけであった。
 
 広南阮氏消滅後、西山阮氏末弟の阮文恵は黎朝の政局に介入し、鄭氏・黎朝を倒して首都を富春に移し、新王朝の西山朝(対内的国号は大越、対外的国号は安南のまま)を樹立したが、これも北方の王者が北部の鄭氏(黎氏)から中部北方の阮文恵(光中帝)に変わっただけで、南北分立の構図はそのままであった。
 結局、西山朝の南北両朝廷(帰仁朝廷・富春朝廷)もまた対峙・抗争に突入した。
 
 1777年以後、シャムに亡命していた阮氏の生き残り阮福暎は、シャム王やフランス人宣教師などの支援を受け、粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。
 1802年に首都を中部北方の富春(現在のフエ)に定め、広南阮氏を再興(ただし、1802年以後は越南阮朝と称する)、年号を嘉隆と改めた(この年号は南の嘉定の「嘉」と北の昇隆の「隆」を統合した象徴とされる)。
 1804年には嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」(南に越の国がある。この国は大きくて、南の天下を支配している)号を求めたが、嘉慶帝は「越南」(中国のはるか南方の僻地に越がある。
 さらにその南方にある国である)という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
 
 阮朝は中国に朝貢を行って形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し、独自の年号を使用し、「承天興運」を国是として、ベトナムに小中華帝国を築き上げた。
 国号・国是と年号は国内の公文書の冒頭に必ず記載された。

フランスとの抗争

 産業革命を経験したヨーロッパでは通商貿易の拡大を求めアジア市場に進出、17世紀初めにはベトナムに通商を求める使者が訪問している。
 阮朝成立直後の1804年イギリス使節ロバーツが通商関係の改善を求めてダナンに来航している。そして1832年にはアメリカからの使節も来航しているが、これを拒絶している。
 
 フランスは当初、フランス革命ナポレオン戦争の影響で、阮朝建国でアドラン司教のピニョーらが活躍した後、しばらくベトナムとの交渉がなかったが、ナポレオン戦争終了後は通商関係を求めてベトナムに使者を派遣している。嘉隆帝は建国の功績を認めフランス人を優遇していたが、通商要求に対しては一貫して拒否していた。
 さらに、明命帝の時代になると、次第にフランス人に対する優遇措置も認められなくなり、1826年には開国を求めるフランス軍艦の艦長との引見を拒否、1826年にはやはり建国の際の功績者であるフランス人ショニーの甥が領事資格で訪越したがこれも拒否し、ベトナムとフランスの公的関係は一時中断している。
 
 さらにこの時期、キリスト教迫害が越仏関係を悪化させた。もともと儒教的な統治を理想とする阮朝は、祖先崇拝を否定するキリスト教に違和感を有していた。しかし、建国の際にフランス人司教ピニョーの支援を受けていたため、当初はキリスト教を保護していたものの、ピニョーの死後は一転して冷遇するようになった。
 
 明命帝が即位するとキリスト教に対する弾圧が実施され、1836年にはヨーロッパ人宣教師 7名が死刑となり、数百の教会が破壊、弾圧を恐れた数万の民衆が山野に逃れている。
 
 その後、

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう


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