5月21日の記事を再記載します。
北方領土問題が大きな話題にならなくなってから久しい。
日本人はどうしてしまったのでしょう。
大東亜戦争で北の大地に散った英霊たち。
少し前に日本テレビで放送され反響を呼んだ
『霧の火-樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女達』
を見て視聴者が感想を記事にされています。
転載させていただきました。
樺太島民慰霊碑
学校4年の時に、家族旅行で行ったのは稚内でした。
私の母は樺太生まれですが、引き上げてきた時は2歳で憶えているわけもなく・・・ただ、祖母、母、叔父は引き揚げ船で北海道に渡る1945年8月22日、三船殉難事件で沈没を免れた第二新興丸に乗っていて、生き残ったわけで、もしかしたら私は生まれていなかったかもしれないのです。
私の母は樺太生まれですが、引き上げてきた時は2歳で憶えているわけもなく・・・ただ、祖母、母、叔父は引き揚げ船で北海道に渡る1945年8月22日、三船殉難事件で沈没を免れた第二新興丸に乗っていて、生き残ったわけで、もしかしたら私は生まれていなかったかもしれないのです。
祖母はこの記憶を絶対に話したがりませんでした。
戦争における記憶、祖父がシベリアに抑留されたこと、引き揚げによって叔父が病気になり生きる死ぬと、幼い母を一人でかかえたこと・・・
従兄弟でもわたしが本当に一部分だけ、小学校の宿題で戦争の記憶を聞くというので聞いたことがあるだけで、その後も一切話そうとしませんでした。
稚内に旅行に行った際も、母は樺太の姿がうっすら見えていても「私の故郷は北海道」と言っていました。
樺太はただ生まれた場所という言い方をしていましたが、祖父は当然違う感情があったようです。
祖父は死ぬまでソビエトを憎んでいましたし、何もしなかった日本政府に怒りを持っていたのは間違いないでしょう。
大平首相の時、シベリア抑留者ということで銀の盾が送られましたが、そんなものいらんと言っていました。
祖父は二年でなんとか戻ってくることができましたが、その時の記憶を聞いたのは私が高校生の時だったでしょうか。
母も聞いたことがないという記憶を「お前には戦争の事実を知って、一番上(従兄弟で)の役割を果たしてほしい」ということで、淡々と話をされたことを憶えています。
それまで日教組の教育に染まりつつあったのかもしれませんが、祖父の話を聞いて、そしてその後色々な戦争体験者の話を左右両方から聞いて、なるほど戦争というものの概略をつかんだと思っています。
そしていかに日教組というのがイデオロギーに汚染されたものなのかということを知るようになったのです。
美化するのではなく、事実を事実として受け止め、それを後の反省とするのは当然なことなのですが、どうも日本ではたった一度の敗戦を、ただ日本が悪かったとインプリントされてしまい、国家としての誇りを失ったように思います。
ただし昨日のドラマは事実を基にしたフィクションでしたが、美化することもなかったのは好印象でしょうか。
また変なイデオロギーを比較的感じなかったわけで、闇雲に戦争はいけないんだというものに終始しなかったのは、日本テレビの意地なのでしょうか。
◇
祖母が死ぬ前に私に言っていたのは、「子供達みんなに恋愛結婚をしてほしかったけれど、それは叶ったのよ」ということでした。
祖父母は戦争の最中・・・樺太では穏やかだったようですが、それでも日本国は戦争をしていたわけですから・・・見合いで年齢差九歳で結婚をしました。
祖母は祖父と結婚したことは結果として幸せだったけれどと言っていますが、ほぼ結婚が決まっている見合いだったことを、子供達には経験させたくなかったから恋愛結婚をしてほしいと願っていました。
戦争の辛く悲しい体験は、祖母にとっては1945年8月9日ソビエトの侵攻によって始まったわけです。
日ソ不可侵条約があるから樺太はまだ大丈夫と思っていたのでしょうが、ソビエトという国は死に体の日本に攻め込んできたわけです。
そして引き揚げ時には自分達の乗っていた船以外のニ隻は沈没、乗っていた船も魚雷が当たって大破、しかも2歳と6月に生まれたばかりの赤ん坊をかかえ、生きた心地がしなかったでしょう。
そんな辛い体験を、子供達や孫にはさせたくないと、辛い体験を隠しいつも笑顔だった祖母は、あの宿題の時以外は孫に話をしていなかったとのことです。
祖父母はともに初孫である私が咀嚼し、それを従兄弟などに伝えてほしいと願ったのかもしれません。
(祖父はそう言っていましたが)
高校の時、祖父と話をしている中で、私の戦争理解はテレビドラマと教師からの教えでずれた歴史観であることを嘆いているように見えました。
本当の戦争は違う、敵国はこうだった、日本はこうだったと冷静に話をしてくれました。
思えばあれがきっかけで、私が大東亜(太平洋)戦争の歴史を徹底的に調べようと考えたわけです。
◇
昨日のドラマを見て、実家の母は周りから聞いた話を知っていますから、ラストシーンに向かうソビエト軍の傍若無人ぶりに涙を流していたでしょう。
私の親戚や知人の家族もソビエト兵に撃ち殺されたと(民間人です)聞いています。
陵辱の限りをつくされたわけですが、それでも生き残った方を知っていますし、私に何かを託された方もいらっしゃいます。
裏づけのない、意味のない平和を訴えるのではなく、現実として国家単位の争いが未だある中での平和を模索する・・・
欧州における第二次世界大戦、日本と米国が主として戦った太平洋戦争が終わって60年以上経っても、ほとんどの人が望む平和というのは訪れていないのだと思っています。
その中で平和ボケをしているのは圧倒的に日本人であると思いますし、これが平和と呼ぶにはあまりにも情けない状況であるともいえると考えています。
戦争における記憶、祖父がシベリアに抑留されたこと、引き揚げによって叔父が病気になり生きる死ぬと、幼い母を一人でかかえたこと・・・
従兄弟でもわたしが本当に一部分だけ、小学校の宿題で戦争の記憶を聞くというので聞いたことがあるだけで、その後も一切話そうとしませんでした。
稚内に旅行に行った際も、母は樺太の姿がうっすら見えていても「私の故郷は北海道」と言っていました。
樺太はただ生まれた場所という言い方をしていましたが、祖父は当然違う感情があったようです。
祖父は死ぬまでソビエトを憎んでいましたし、何もしなかった日本政府に怒りを持っていたのは間違いないでしょう。
大平首相の時、シベリア抑留者ということで銀の盾が送られましたが、そんなものいらんと言っていました。
祖父は二年でなんとか戻ってくることができましたが、その時の記憶を聞いたのは私が高校生の時だったでしょうか。
母も聞いたことがないという記憶を「お前には戦争の事実を知って、一番上(従兄弟で)の役割を果たしてほしい」ということで、淡々と話をされたことを憶えています。
それまで日教組の教育に染まりつつあったのかもしれませんが、祖父の話を聞いて、そしてその後色々な戦争体験者の話を左右両方から聞いて、なるほど戦争というものの概略をつかんだと思っています。
そしていかに日教組というのがイデオロギーに汚染されたものなのかということを知るようになったのです。
美化するのではなく、事実を事実として受け止め、それを後の反省とするのは当然なことなのですが、どうも日本ではたった一度の敗戦を、ただ日本が悪かったとインプリントされてしまい、国家としての誇りを失ったように思います。
ただし昨日のドラマは事実を基にしたフィクションでしたが、美化することもなかったのは好印象でしょうか。
また変なイデオロギーを比較的感じなかったわけで、闇雲に戦争はいけないんだというものに終始しなかったのは、日本テレビの意地なのでしょうか。
◇
祖母が死ぬ前に私に言っていたのは、「子供達みんなに恋愛結婚をしてほしかったけれど、それは叶ったのよ」ということでした。
祖父母は戦争の最中・・・樺太では穏やかだったようですが、それでも日本国は戦争をしていたわけですから・・・見合いで年齢差九歳で結婚をしました。
祖母は祖父と結婚したことは結果として幸せだったけれどと言っていますが、ほぼ結婚が決まっている見合いだったことを、子供達には経験させたくなかったから恋愛結婚をしてほしいと願っていました。
戦争の辛く悲しい体験は、祖母にとっては1945年8月9日ソビエトの侵攻によって始まったわけです。
日ソ不可侵条約があるから樺太はまだ大丈夫と思っていたのでしょうが、ソビエトという国は死に体の日本に攻め込んできたわけです。
そして引き揚げ時には自分達の乗っていた船以外のニ隻は沈没、乗っていた船も魚雷が当たって大破、しかも2歳と6月に生まれたばかりの赤ん坊をかかえ、生きた心地がしなかったでしょう。
そんな辛い体験を、子供達や孫にはさせたくないと、辛い体験を隠しいつも笑顔だった祖母は、あの宿題の時以外は孫に話をしていなかったとのことです。
祖父母はともに初孫である私が咀嚼し、それを従兄弟などに伝えてほしいと願ったのかもしれません。
(祖父はそう言っていましたが)
高校の時、祖父と話をしている中で、私の戦争理解はテレビドラマと教師からの教えでずれた歴史観であることを嘆いているように見えました。
本当の戦争は違う、敵国はこうだった、日本はこうだったと冷静に話をしてくれました。
思えばあれがきっかけで、私が大東亜(太平洋)戦争の歴史を徹底的に調べようと考えたわけです。
◇
昨日のドラマを見て、実家の母は周りから聞いた話を知っていますから、ラストシーンに向かうソビエト軍の傍若無人ぶりに涙を流していたでしょう。
私の親戚や知人の家族もソビエト兵に撃ち殺されたと(民間人です)聞いています。
陵辱の限りをつくされたわけですが、それでも生き残った方を知っていますし、私に何かを託された方もいらっしゃいます。
裏づけのない、意味のない平和を訴えるのではなく、現実として国家単位の争いが未だある中での平和を模索する・・・
欧州における第二次世界大戦、日本と米国が主として戦った太平洋戦争が終わって60年以上経っても、ほとんどの人が望む平和というのは訪れていないのだと思っています。
その中で平和ボケをしているのは圧倒的に日本人であると思いますし、これが平和と呼ぶにはあまりにも情けない状況であるともいえると考えています。
以上転載記事
私たちはひとりひとりの英霊に感謝し、英霊たちはなにを後世の私たちに託したのか?
語り伝えていくことこそが大事なのでは。。
ひとりひとりの英霊を・・・・