ミャンマー
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:我、ミャンマーを愛さん
公用語 ビルマ語 首都 ネピドー 最大の都市 ヤンゴン - 注1: タチレクの通貨はバーツ
注2: かつてのccTLDは.bu1989年までの名称はビルマ。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)。多民族国家でありビルマ族(人口の6割)の他、主なものとして、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族の少数民族がある。歴史
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。驃国・タトゥン王国
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1929年の世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサム・マニプールはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年、タキン・ソーがビルマ共産党 (CPB)を結成。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し(ビルマ戦役の始まり)、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin Soe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRP)が三派合同した。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥンの率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる赤旗共産党が分裂した。対日関係
ビルマは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは日本の政治家に根強い親ビルマ的空気を敏感に察知し、「親日国ビルマ」を演出するパフォーマンスに長けていたことは現代日緬関係史研究における常識に属する。このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしている。欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用しており(長井健司射殺事件に関する福田康夫の発言「直ちに制裁するかどうかはもう少し見極めてから」など)、これまでに幾度か軍事政権に働きかけを行ってきた。しかし、これまでのところは芳しい成果が上がっていない。ビルマの軍歌には軍艦行進曲の旋律を流用したものがあり(但し、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。- 国の標語:なし