地下水くみ上げ、埋め立て、地下街…160年前「安政南海地震」よりはるかに“危険な街”になった「大阪」
大阪のミナミを横断する千日前通の西端にあり、浪速、大正区境の木津川に架かるのが大正橋だ。その名は大正4(1915)年に完成したことにちなんでおり、のちの昭和7(1932)年に大正区が新設されるにあたり、区名の由来ともなった。
現在の大正橋は2代目となる。大正時代に初代の大正橋が建設されたのは、工業地帯として発展していた現在の大正区域と大阪市街地を結ぶ交通の要衝としての役割が期待されたからだ。それ以前は渡し場だったため、大正橋は船の交通の妨げにならないようアーチ型が採用された。アーチ支間長は91メートルあり、当時、日本最長のアーチ型橋だった。
その後、設計上の問題もあって変形が激しくなったため、昭和44(1969)年に2代目の大正橋が一部開通した後、撤去された。
こうした大正橋の周辺地域の開発・発展をめぐる歴史の源流は、新田開発が進んだ江戸時代に発する。しかし皮肉なことに歴史の証言としてこの地域に残されているのは、今は大正橋の東詰北側にある、嘉永7(1854)年に起きた安政南海地震の石碑「大地震両川口津浪記」である。
安政南海地震は嘉永7年11月5日午後4時ごろ、紀伊水道から四国沖を震源として起きた。この30時間ほど前には安政東海地震が発生しており、両地震ともマグニチュード(M)8・4と推定される巨大地震だった。安政南海地震による津波が大坂を襲ったのは、地震発生の約2時間後である。
当時の大坂は、元禄時代(1688~1704年)に河村瑞賢が木津川口の開削を行ったことなどにより、全国からの回船でにぎわっていた。だが、津波は回船を凶器へと変えた。八百八橋といわれた大坂の橋を次々と落とし、多くの溺死者を生んだ。