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[転載]水俣条約採択:元チッソ労組委員長 「脱水銀 出発点に」

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水俣条約採択:元チッソ労組委員長 「脱水銀 出発点に」

毎日新聞 2013年10月10日 
外交会議会場で、水銀汚染に関する調査結果を披露する山下さん=熊本県水俣市で2013年10月8日午後6時47分、笠井光俊撮影
外交会議会場で、水銀汚染に関する調査結果を披露する山下さん=熊本県水俣市で2013年10月8日午後6時47分、笠井光俊撮影
 
 10日採択された「水俣条約」に期待を込めるのは被害者ら関係者だけにとどまらない。熊本県水俣市の原因企業チッソの元社員、山下善寛さん(73)は「毒」を海に流した側の一人として責任追及と被害者救済活動を続けている。外交会議会場では周辺に残る水銀汚染箇所に関する調査結果をパネル展示し、水俣病が終わっていないことを明らかにしている。「これを出発点に、世界が水銀排出をすべてやめるまで、その危険性を訴えたい」と話す。
 
 「将来性がある」と入社した1956年、水俣病が公式確認された。もちろん原因企業と知るよしもない。配属された研究室での仕事は、ネコの脳などに含まれる水銀値の分析。持ち込まれたネコは水銀が投与されていたが、そのことは聞かされず、「死因は水銀」とみられる実験結果が公表されることもなかった。
 
 61年暮れごろ、同僚に、ある結晶を見せられた。「チッソの工場排水から抽出した有機水銀だ」。説明に衝撃を受けた。水俣病の原因物質を巡っては「有機水銀説」も浮上していた。が、チッソは自社の責任を認めていなかった。
 
 「原因はチッソだった……」。その事実が重くのしかかる。しかし外部に漏らすと解雇される。口をつぐむしかなかった。日々襲われる罪悪感。垂れ流しは国が「原因はチッソの排水に含まれる有機水銀」と認める68年まで続いた。
 
 「排水を止めていれば被害拡大を防げたかもしれない。市民がどれだけ苦しんだか。でも勇気を持って言うことはできなかった」。同年、結成された患者支援組織「水俣病市民会議」に偽名で参加。一方で、組合活動にのめり込んだ。会社側からは配置転換や自宅待機などの差別、嫌がらせが続いたが、屈することなく患者支援に打ち込み、組合委員長を引き受けた。
 
 1990年まで12年間、チッソの第1労働組合委員長として会社側の責任追及や情報開示などに取り組んだ。2000年の定年退職後も患者支援を継続。最近は水俣市周辺工場から排出された廃棄物に含まれる水銀などによる汚染箇所を精力的に調査している。
 条約採択に改めて思う。「水俣病は終わっていないし、汚染された自然環境も復元されていない。排水垂れ流しの責任は今後も背負い続けるが、条約採択を基に、より良い仕組みをつくらなければいけない」【笠井光俊】

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 世界規模で水銀の使用や輸出入を規制する「水俣条約」は10日、熊本市で開催中の外交会議で採択された。条約の発効には、50カ国以上の批准が必要。日本では現在、回収された水銀の大半は輸出されており、環境省は水銀を廃棄物として指定するなどの法整備に着手、早期批准を目指す。
 
 会議には約140カ国の首相や閣僚級を含む約1000人が出席。採択に先立ち、会議を主催する国連環境計画(UNEP)のシュタイナー事務局長は、水俣病の歴史に触れながら「水銀の影響を知りながら使い続けた長い旅を終わらせ行動をとるときが来た」と各国に早期批准を呼びかけた。
 条約名は、水俣病の悲劇を繰り返さないとの決意を込めて、日本政府が提案。前文に「水俣病の教訓」という言葉が盛り込まれた。 条約は、水銀による健康被害や環境汚染を防ぐため、水銀鉱山の新たな開発を禁じ、既存の鉱山も発効後15年以内に採掘を禁止。また、体温計や血圧計、電池や蛍光灯など9種類の水銀含有製品も2020年までに製造や輸出入を禁止する。輸出が認められる製品でも、事前に輸入国の同意書が必要となる。
 
 一方、東南アジアや南米、アフリカ南部の貧困地区で続く小規模金採掘での水銀使用は、大気中への最大の放出源となっているが「実行可能なら廃絶する」と、完全には禁止されなかった。また、公害への被害補償や環境浄化の義務規定が盛り込まれないなど課題も残した。
 
 日本では水俣病をきっかけに水銀の利用量が激減した。現在は、亜鉛や銅などの金属製錬で出た汚泥や、使用済み蛍光灯などから年間約90トンの水銀が回収され、うち国内利用分を差し引いた84トン(12年度)が輸出されている。
 条約が発効すれば、輸出規制に加え、海外需要も大幅に減る見込み。このため、輸出できない余剰水銀を国内で長期的に管理することを迫られる。環境省は安定的な保管方法や費用負担の仕組みなどを検討した上で、15年度中に廃棄物処理法施行令を改正、水銀を廃棄物として指定する方針だ。
 
 条約の発効時期についてシュタイナー事務局長は「50カ国の批准を2〜3年で集めることは難しくない」との見通しを示した。大気への排出量が多い中国やインドなどがいつ批准するかが今後の焦点となる。【阿部周一、松田栄二郎】

 ◇水俣条約骨子

・化粧品や血圧計など水銀を含む9種類の製品の製造や輸出入を2020年までに禁止
・輸出が認められた製品でも、輸入国の事前の書面同意が必要
・歯科用水銀合金の使用を削減
・小規模金採掘は使用を削減。可能なら廃絶
・新規水銀鉱山の開発禁止。既存鉱山からの産出は発効から15年以内に禁止
・石炭火力発電所からの水銀排出を削減
 
恋路島を背に写真集を手にする小柴一良さん=熊本県水俣市で2013年、笠井光俊撮影
 写真家の小柴一良さん(65)=東京都=の水俣病患者たちの日々を撮影した写真集が今年出版され、話題を呼んでいる。20代後半に撮影した写真と、最近撮影した写真を一つにまとめた異色の作品。「写真家としても、人間としても、当時は未熟だった。水俣が見えていなかった」。水俣病の混迷に翻ろうされ、一度は去った熊本県水俣市を28年ぶりに再訪し、「やり直す」と誓った魂の軌跡を記した写真群だ。【笠井光俊】
 26歳だった1974年、フリーの報道写真家を志望して大阪から水俣に来た。元々は写真界の巨匠・土門拳の撮影助手などをしていた。当時の報道写真の世界では「水俣病かベトナムか」という雰囲気があり、水俣を選んだという。知り合いもつてもないが、当時は若さがあった。リュックサックとカメラ1台を持ち、フェリーと列車を乗り継いで水俣へ。部屋を借りて水俣病患者をカメラに収めた。そして、患者を家族に持つ女性と出会い、結婚した。
 当時は、水俣病第1次訴訟が終わって認定患者に多額の補償金が支払われる一方、認定申請者に「ニセ患者」と中傷が浴びせられるなど、患者間に「溝」が作られた時期。勝訴した患者の多くから「静かに生活させてほしい」と撮影を拒否された。それでも、集会などで患者に声をかけては自宅を訪れ、水俣市の療養施設「明水園」にも通って胎児性患者と仲良くなり、写真を撮り続けた。
 しかし、患者間の「溝」が深まる中、結婚で患者家族の一員となったことが、カメラを持つ自分と患者たちとの距離感を次第に分からなくさせていった。深まる悩み。ついにシャッターを切れなくなった。
 水俣に来て約5年後、被写体となった人々に何も言わず、逃げるように家族を連れて大阪に帰った。水俣病に関するニュースを見ることも避けるようになり、結局、離婚。段ボール箱にしまいこんだ6000カット近いフィルムはカビが生えるにまかせた。
 転機は、水俣病公式確認から50年の2006年に訪れた。翌年に水俣市で開かれることになる写真展「水俣を見た7人の写真家たち」への誘いが来たことだ。同じく水俣を撮り続けた写真家の桑原史成さんから何度も説得され、水俣の写真を初めて公開することを決めた。フィルムの8割は使いものにならない状態だったが、9カットを何とか出展した。
 
 
 
 

転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会 水俣水銀条約遵守


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