Ⅱ 建国の記憶の推移:1945~1987
周知のように、1945年8月15日、韓国人たちは日帝の植民地支配から「解放」された。1946年8月15日は「第1回解放記念日」であったし、1947年8月15日は「第2回解放記念日」だった。「解放」と共に韓国人に与えられた課題は、独自の国民国家を樹立することだった。これを指して、当時の韓国人たちは、「独立」、「建国」、「政府樹立」など多様に表現した。
国際社会の理解も同じだった。アメリカは、韓国人たちが彼らの「偉大な国家を立てること」を助けると約束した。中国から帰って来た大韓民国臨時政府も同じ立場だった。臨時政府は自らを「建国運動の工具」と定義した。要するに、1945年8月15日の「解放」とともに「建国運動」の時代が開かれた。
「建国運動」は、政治だけでなく、経済、社会、文化の各方面で多様に展開された。1947年11月、国連で「韓国独立」に関する決議があった。それによって住民の総選挙が施行され(1948.5.10)、そこで選出された代表が国会を構成し(1948.5.31)、立てられる国家の憲法が制定され(1948.7.17)、米軍政から主権の委譲を受けた独立国家の成立が国内外に宣布された(1948.8.15)。1948年12月、国連は、「韓国全体で人民の多数が居住している地域で、実質的な統制と司法権を行使する一つの合法的な政府(大韓民国の政府)が成立したこと」を承認した。これを根拠として、1949年1日(翻訳者注:原文のまま)、アメリカが大韓民国政府を承認し、大多数の国際社会が後に続いた。このように段階的に進行された政治過程を指して「建国」と規定することができない特別な理由はないと思う。1949年8月15日は「第1回独立記念日」として慶祝された。「建国運動」も続いた。1949年9月に建国功労勳章令が公布され、12月には建国公債が発行された。
1949年6月に三・一節、憲法公布記念日、独立記念日、開天節を祝日として制定する法案が国会に上程された。同年9月にその法案が国会本会議を通過する時、憲法公布記念日は「制憲節」に、独立記念日は「光復節」に名前が変えられていた。当時の国会議事録は記念の内容には変化が無かったことを示している。要するに、今日の「光復節」は最初は「独立記念日」として制定されたのだった。1950年8月15日に朝鮮戦争の渦中で臨時首都釜山で光復節記念式が開かれたが、「第2回光復節」であった。
同じく1951年8月15日は「第3回光復節」だった。ところが、新聞報道に現われた民間の理解はそれと違っていた。東亜日報は1951年の光復節を「第6回光復節」と報道した。戦争と政治の混乱が1948年に新しい国が建てられたという記憶をこれ以上支えることができなかったと思われる。1953年に東亜日報は8.15を「解放節」と称した。事実上、この時から光復節は1945年8月15日の解放を記念する祝日として理解された。政府の公式式典でもそうだった。それでも、1948年8月15日に新しい国が建てられたという記憶が忘れられたのではなかった。1959年まで、光復節は「解放」と「建国」を共に記憶する祝日だった。そんな中、1958年の光復節は解放よりも「建国10周年」または「政府樹立10周年」を特別に記念する各種行事として行われた。以後1998年までそういうことは再び無かった。
1960年の4.19義挙を継承した第2共和国と1961年の軍事革命で成立した第3共和国は、第1共和国を事実上否定した。「祖国近代化」の旗を掲げてそれを猛烈に推進した朴正煕大統領は、毎年の光復節の祝辞において解放以後1960年までをひたすら「挫折と試練の歴史」と定義した。彼の思考に民族の歴史が希望と成就の歴史として新しく書かれ始めたのは、彼が主導した軍事革命以後からだった。1948年に新しい国が成立したという第1共和国までの記憶は遠くに消えて行った。
ただ、建国に参加した民間社会だけはそれに関する記憶を無くしてはいなかった。1968年と1978年の光復節を迎え、東亜日報は「建国20周年」と「建国30周年」を記念する特集記事を企画した。
(続く)
韓国における現代史紛争
イ・ヨンフン/ソウル大学経済学部教授
季刊『時代精神』2010年秋号