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マレーシアのルーツ歴史

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マレーシアの歴史

 東南アジアの中心部に位置し、初期からヨーロッパ・東洋・インド・中国各方面からの交易ルートの中心地として、世界でも主要な海洋の交 差点の一つと なっている。
 

マレーシア人のルーツ

 
氷河期の海岸線。
 サフールランドをなす大陸棚とスンダランドをなす大陸棚の間に、「ワラセア」という陸地がある。アボリジニの先祖たちはこの群島伝いにサフールランドへと渡っていった
 
 
 温暖な熱帯の気候や手付かずの自然の恵みは、約5千年前、オラン・アスリ(西マレーシアの原住民)の祖先の時代に、大陸中国やチベットからの大移動の開拓者たちが移民する先として適した環境であった。続いてマレー系の人々が農業や金属の使用といった技術を携えてやって来た。
 
オラン・アスリ (Orang Asli) は、マレー半島の先住民族。18の民族からなり、17の民族はマレーシア(約9万人)に、1の民族はインドネシアに主な居住地区を持ち、身分制による階級社会が残存している。約6万年前にアフリカから渡ってきたものと推定されている。
 マレーシアでは伝統的にこの民族を3つの行政区分で統治している。 言語はマレー半島中部・北部の民族は、マレー語系に属さないモン・クメール語派を母語とする。
 
 
鼻笛を吹くオラン・アスリ
伝統的な火おこしの様子
 
 
 
 西暦前1世紀ごろ、中国やインドとの間で強力な貿易提携が結ばれ、国の言語や伝統・文化に多大な影響を与えるものとなった。
 マレーシアの歴史の中で、ヒンズー・仏教を中心とする時代があったことは、タイの国境に近い、西マレーシアの北西に位置するクダ州にある、ブジャング盆地やムルボック河口の遺跡に見られる。

イスラム文化の時代

 アラブやインドの貿易商によって持ち込まれたイスラム教の広まりは、13世紀までにヒンズー・仏教の時代に終わりをもたらした。マラッカを領地とする、ヒンズー教徒のマレー人の支配者たち(マラッカ王国としてマラッカ海峡の両側を100年以上の間統治した)の、イスラム教への改宗に伴い、イスラム教がマレー系の宗教として確立され、マレー社会に重大な影響を及ぼすこととなった。
 
1396年 マラッカ王国成立 スマトラ島(現インドネシア)パレンバンの王族「パラメスワラ王子」がトマセック(現シンガポール)経由で渡来し「マラッカ王国」の建国を宣言。当時は人口も少なく、のどかな漁村だったと伝えられている。
 
初代国王パラメスワラ
 
 マラッカ王国(Malacca Sultanate)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家1402年 - 1511年)。漢籍史料では満刺加と表記される。16世紀初頭にマラッカに滞在し、『東方諸国記ポルトガル語版』を著したポルトガル人トメ・ピレス英語版によれば、「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている。マレー半島という交易において重要な位置に立地していたことが国家の形成に多大な影響を与え、香料貿易の中継港としてインド中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。
同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があった。
 
Map of 1400s Malacca and its contemporaries.
 
 
マラッカ海峡・スンダ海峡付近の地勢と主要航路
 
1402年 - 1511年ジョホール王国
ペラク王国
ポルトガル領マラッカ
マラッカ王国の国旗
(国旗)
マラッカ王国の位置
15世紀のマラッカ王国の支配領域
 
マラッカ海峡:西暦166年の「大秦王安敦の使者」[注釈 2]4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕7世紀後半の義浄14世紀イブン・バットゥータ15世紀鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもマラッカ海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5ヶ月間滞在している[7]
 
 マレーシアの歴史教科書は日本軍のコタバル上陸・明治天皇御真影から始まる
 

帆船時代の東西交易とマラッカ海峡

宋代のジャンク船
 
 帆船の時代にあっては、古代エジプト古代ローマアラビアアフリカトルコペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。
 古代にあっては、夏季6月-11月)に吹くモンスーン貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季12月-3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。
 
 6世紀ころ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。
取引される各地の特産物としては、
 などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や東シナ海で用いられたジャンク船とインド洋一帯で広く用いられた1本マストのダウ船とがともに行き交う海域であった。
 
 12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。
 

シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国

ジャワのボロブドゥール遺跡シャイレーンドラ朝)に刻まれた当時の帆船レリーフ(浮彫彫刻)
 
 ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南チャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。西アジアの船は広州泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人ペルシャ人居留地があったという。
 
 こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。
 7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。
 の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語仏典の筆写と漢訳を行った。
 帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝中国語版』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった。
 シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した。
 
 唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。
 五代十国を経て建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフアブー・ザイドなどアラブ人の書いた旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている。
 また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非中国語版『嶺外代答』や趙汝适中国語版『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。
 これらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している。
 
 シュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。
 
 14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。
 
 その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している。
 
 13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している。
 
 アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる。
 
 そして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである。
 
 
 
1405年明国(現在の中国)の永楽帝の命を承けた海軍大将「鄭和」の率いる艦隊が来航。鄭和にマラッカ港の宿舎兼港湾倉庫を貸与し朝貢交易をはじめる。
1411年マラッカ王国のパメスワラ王が明国皇帝を自ら表敬訪問する
1414年イスラム教を国境に定め、パラメスワラ国王はイスラム名:イスカンダルシャー国王と改名した。以降、マラッカ王国はアラブ圏とアジア、極東アジア各地のスパイス・絹・麻・陶器などの交易を担う海のシルクロード中継港として繁栄する。
1509年ヨーロッパからの最初の交易船がマラッカに寄港
アフリカ大陸最南端「喜望峰」から回航しインドを経由してきた「ディェゴ・ロペス・デ・セクィエラ隊長」率いる軍艦を連ねたポルトガルの商船隊は、栄華を極めた貿易港「マラッカ」に魅力を感じたポルトガルの侵略構想が膨らんだと思われる。
1511年「マラッカ王国」陥落。ポルトガルの植民地となる
時は大航海時代。マラッカは東西交易に欠かせない重要な海洋拠点だった。従来のアラブ商人経由の香辛料取引を直接交易による利益を独占しようとしたポルトガル。国王の命を受けた「Alfonso D' Albuquerque;アルフォン・デ・アルバカーキ副王」が16隻の大艦隊を率いてマラッカ王国を10日間包囲し攻撃、占領。現在も残るサンチャゴ砦(ファモサ)と5階建ての塔を建設した。

この難をかろうじて逃れたマラッカ国王は南下遷都し国名を「ジョホール王国」として18世紀に衰退しイギリスの支配下に入るまで勢力を保っていた。マラヤ連邦として完全独立後ジョホール王は復権し、現在でもその末裔がジョホール王(サルタン)として王家は存続している。
 
 

マラッカの建設

 14世紀末から15世紀初頭にかけてマジャパヒト王国で起きた内戦(パルグルグ戦争インドネシア語版)に巻き込まれたスマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのが王国の起源である。当初一行はトゥマシク(シンガプラ、現在のシンガポール)に逃れたがトゥマシクは海賊たちが跋扈する危険な地であり、またタイのアユタヤ朝からの攻撃に晒されたためにマレー半島を移動し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」(またはバジャウ)と呼ばれるマラッカ海峡の海上民の協力を得て村落を造り、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。
建国の時期は1402年と推定されることが多いが、14世紀末にすでに王国が成立していた可能性を指摘する声もある。
 
 1405年 マラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始める。パラメスワラの子イスカンダル・シャー英語版はマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。
 ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った。
 パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった。イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年 - 1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した。
 
 マラッカの発展にはパラメスワラが連れてきたシュリーヴィジャヤの貴族と海上民以外に、明が実施した私貿易の禁止によって東南アジア各地に留まらざるを得なくなった中国人のコミュニティも寄与していた。彼らは明への貿易を組織し、また中国の造船技術と東南アジア島嶼部本来の造船技術が合わさったジャンク船を建造して海洋交易で活躍したのである。
 
 

繁栄

 1445年スリ・パラメスワラ・デワ・シャー英語版が明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。
 
 1446年に即位したムザッファル・シャー英語版の治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた。
 
 ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、中国人の血を引くと伝えられる副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった。
 
 次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し、ロカンを従属させた後、これらの国からを貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした[24]
 
 第7代スルタン

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