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ハバナ



ハバナ   

サン・クリストーバル・デ・ラ・アバナ
San Cristóbal de La Habana
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キューバの旗

位置座標 : Image may be NSFW.
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北緯23度8分西経82度23分 / 北緯23.133度 西経82.383度 / 23.133; -82.383
歴史 建設 行政  市 評議会議長 地理   市域標高人口人口  市域 その他等時帯夏時間
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ハバナ市街からカリブ海を望む

ハバナ市街からカリブ海を望む
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サン・クリストーバル・デ・ラ・アバナの市旗
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サン・クリストーバル・デ・ラ・アバナの市章
市旗市章
愛称 : Ciudad de las Columnas
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の位置図
1515年
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キューバの旗
キューバ
ハバナ市
サン・クリストーバル・デ・ラ・アバナ
Marta Hernández Romero
キューバ共産党
面積 
 ? km2
5 m
2005年現在)
約2,328,000人
東部標準時 (UTC-5)
東部夏時間 (UTC-4)
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カピトリオ(旧国会議事堂、現博物館)。

 ハバナサン・クリストーバル・デ・ラ・アバナ、スペイン語正式名:San Cristóbal de La Habana)は、キューバ首都キューバ島北西沿岸のフロリダ海峡に接する地点に位置し、カリブ海域における最大の都市である。
 人口は約200万人。位置は北緯23度8分、西経82度23分。日本語では英語表記のHavanaをもとにしたと思われるハバナ表記が広く一般的に用いられているが、現地語であるスペイン語にならう場合、その正式な名称はあくまでラ・アバーナ(La Habana [la aˈβana] (Image may be NSFW.
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聞く)
)である。また、「クリストーバル」とは、クリストフォロスのスペイン語読みであり、ハバナの守護聖人である。


歴史

       

ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル

   
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ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル
スペインによる
アメリカ大陸の植民地化
征服の歴史コンキスタドール
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サンティアーゴ・デ・クーバにあるディエゴ・ベラスケスの家
ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルDiego Velázquez de Cuéllar, 1465年 - 1524年6月12日)は、スペインコンキスタドール1511年から1524年までキューバ総督を務めた。

ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルの生涯

 ディエゴ・ベラスケスはスペインのクエリャルで生まれた。ベラスケスは1493年クリストファー・コロンブスの船団の一員として初めて新世界を訪れた。
 1511年イスパニョーラ島に移り、キューバ征服を指揮した。その後初代キューバ総督に就任し、キューバ島の各地にサンティアーゴ・デ・クーバハバナなどの多くの植民地や都市を築いた。
 1513年、インディオの減少による労働力不足を補うために黒人奴隷の輸入を認可した。

 ベラスケスは西方の土地の調査のために、1517年フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバユカタン半島探検などの様々な探検を認可した。
 最初のうちはエルナン・コルテスメキシコ探検も支援したが、コルテスはメキシコの占領と自身の領有権を主張するようになった。ベラスケスはコルテスの越権行為を非難し、パンフィロ・デ・ナルバエスにコルテスの逮捕を命じた。
 しかし、ナルバエスの軍隊はコルテスの奇襲を受けて敗北し、生き残りはコルテスに降伏した。このため、ベラスケスはメキシコからの富を見ることはなかった。
 1524年、ベラスケスはサンティアーゴ・デ・クーバで死去した。


  ハバナの始まりはコンキスタドールであるディエゴ・ベラスケスが、1514年にキューバ島の南岸(バタバノ湾側)にある現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いた時点まで遡る。現在地(メキシコ湾側)に都市が移されたのは1519年のことである。


 1553年にはそれまでのサンティアゴ・デ・クーバに代わってキューバ総督領の首府となった。1519年以降、港を中心に都市を築かれていったハバナはスペイン新大陸における植民地経営の中心地として、及びに貿易の主要な中継地として発展した。そのためにキューバはフランスイギリスオランダ海賊の攻撃を受けるようになった。
 1537年にはフランス海賊によって最初の襲撃が加えられ、焼き討ちにあい、1553年1555年にも略奪を受けるなどの被害を受けた。このため、ハバナにはフエルサ要塞、プンタ要塞、モーロ要塞などの多数の要塞が築かれ、軍事都市としての趣が整えられた。1713年のユトレヒト条約によってイギリスのイスパノアメリカ貿易の参入が限定的ながらも承認されると、以降海賊に代わって密貿易が盛んとなった。

  ユトレヒト条約(ユトレヒトじょうやく)は1713年スペイン王位継承戦争及び並行して北アメリカ大陸で行われていたアン女王戦争講和条約。ただし、神聖ローマ皇帝カール6世フランスルイ14世との間の講和条約はラシュタット条約として別途締結された。
  内容はイギリスの一人勝ちであった。
 フランスを含む各国がヨーロッパの王冠に夢中になっているのに対し、立憲君主制を確立していたイギリスは王位・帝位よりも純粋に国益に基づいて戦争を乗り切ることができた。
 そのためには総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチル将軍をもスキャンダルで罷免することを躊躇わなかった。
 イギリスはフランス(のブルボン家)にスペイン王位を認める代わりに仏西の合同禁止を受け入れさせ、さらに北米での優位を確立して大英帝国の基礎を築いた。但し、和平を推進した与党のトーリー党は後に王位継承問題で躓き、ホイッグ党に政権を奪われた。



 18世紀はキューバ経済の拡大により、1728年にはハバナ大学が建設され、1738年には郵便制度が確立した。この時期に造船所が建造されるなど産業の発達も著しく、1740年には城壁が完成したが、七年戦争下の1762年にハバナはイギリス軍によって攻囲された。
 スペイン軍が降伏してイギリス支配の下に自由貿易港になると、多数のアフリカ人奴隷がイギリス人商人によってアフリカからハバナへ連行された。
 1763年にスペインとイギリスの間の協定により、イギリスはキューバとマニラフィリピン)を返還してフロリダを受け取った。スペインはこれに懲りてハバナの更なる要塞化を進め、アメリカの全域でももっとも強固な要塞都市とした。一方、一年間のイギリス軍の占領の最中に自由貿易を実現したハバナは経済的に繁栄し、ハバナのクリオージョ支配層は自由貿易の実現を望むようになった。

 19世紀に入り、フランス領サン=ドマングの黒人反乱により、黒人国家ハイチが独立すると(ハイチ革命)、ハイチから亡命したフランス人農園主によってサトウキビ栽培の技術が導入された。
 18世紀後半に奴隷貿易が自由化されたことによって労働力の確保が容易になったこともあり、以降キューバの砂糖産業の拡大が始まり、ハバナはキューバの近代的糖業の中心地となった。
 1810年頃からシモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンらによってラテンアメリカの独立運動が進むと、1818年にスペイン当局はキューバのクリオージョの不満を宥めるためにハバナを完全な自由貿易港とした。

 19世紀にスペイン植民地の立場から独立しなかったキューバには経済的期待から農業のために多くの移民や黒人奴隷が流入し、多民族社会が形成された。1837年にはハバナにラテンアメリカ初となる鉄道が導入された。ハバナの人口は1830年代に10万人を、1860年には20万人を越え、ハバナはラテンアメリカで最も繁栄を謳歌した都市となった。

 1898年にハバナ港でアメリカ海軍戦艦メインが爆沈し、アメリカ・スペイン・キューバ戦争の発端となった。ハバナは、1902年のキューバ共和国の独立により、キューバの首都となった。独立以前からキューバへの投資の多くはアメリカ合衆国資本だったが、独立以降この動きがさらに進んだ。
 1920年代にアメリカ合衆国で禁酒法が施行されると、アメリカ人たちは享楽を求めてハバナを訪れるようになった。その結果、ハバナにはアメリカ人富豪の別荘が多く立ち並び、多くの観光客によって高級クラブやカジノがにぎわうリゾート歓楽都市として大発展した。ただし、こういった娯楽施設のほとんどは、1959年キューバ革命に伴って閉鎖された。

 1959年のキューバ革命によるバティスタ政権崩壊と共産党革命政権樹立後も、キューバの首都としてのハバナの位置は引き続き変わらなかった。むしろ革命政府は、ハバナをキューバ社会主義建設の中心地たる生産都市へと変えるべく、「大ハバナ都市圏」として住宅地帯、新工業地帯、自然公園などの都市整備をはかる都市計画を実施した。
 その結果、1960年代に市内の商店とホテルが国営化され、大邸宅はことごとく学校や公共建物に流用された。また、バティスタ政権下ではコロンビア兵営だった施設は教育センターに、旧大統領宮殿は革命博物館に変えられた。

文化


 ハバナ旧市街は全盛期のスペインコロニアル様式が完全に保存されており、1982年に旧市街などが世界遺産に登録された。スコットランドグラスゴーとは姉妹都市関係を結んでいる。
 文豪アーネスト・ヘミングウェイがこよなく愛した街としてもよく知られる。ヘミングウェイは晩年をこの街で暮らし、名作『老人と海』をここで書き上げた。市南東部郊外には、ヘミングウェイの記念館がある。

都市の現況及び主要施設

 ハバナ港はキューバ最大の貿易港で、キューバが輸入した品の約90%が同港からキューバ国内に持ち込まれる。また、主にハバナ周辺で栽培されるタバコサトウキビが同港から輸出されている。

 最近では観光事業振興にも力を傾けており、主に旧ソ連ヨーロッパカナダなどから観光客が集まってくる。17世紀18世紀にかけて建設されたハバナ湾西部の半島部を占める旧市街地は、白い建物が多いスペイン風の美しい街並みで、今なおスペイン植民地時代以来の歴史的遺物が残っている。

 旧市街地の西方にある広大な新市街地は、第一次世界大戦後のアメリカ及びキューバの資本家や、バティスタ政権の政府要員の高級住宅地として開発された地で、広い道路と近代的な高層ビルが立ち並んでいる。旧市街地と新市街地の間には、革命広場がある。また、小規模ながら中華街が存在しており、中国系キューバ人が住んでおり、中華レストランがいくつかある。

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