安政東海地震 津波シミュレーション
安政東海地震
対数幾何平均 K=1.07 (log K:0.07)
対数幾何標準偏差 k=1.33 (log k:0.29)
対数幾何平均 K=1.07 (log K:0.07)
対数幾何標準偏差 k=1.33 (log k:0.29)
嘉永期におきた出来事
安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震は嘉永期の地震で本来「嘉永の大地震」であるが[1]、これらの地震や黒船来航、内裏炎上などの災異が多発したことにより同年中にも安政へ改元されたため、嘉永7年を安政元年と解釈し「安政」を冠して呼ばれる[2]。
安政の大地震
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年に発生した安政江戸地震を指す[1][2][3]ことが多いが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震[4]および安政南海地震[5]も含める場合もあり[6]、さらに飛越地震[7][8]、安政八戸沖地震[9]、その他伊賀上野地震[10]に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される[11][12][注 1]。
1854年の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は嘉永7年に発生した地震であり、当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、地震後の嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元されたため本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが[14]、明治改元の際、詔勅で「慶応4年(1868年)を明治元年と改元する」とされ慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元されたと解釈され、「安政の大地震」でよいとされる[15]。
歴史年表は嘉永7年1月1日に遡り安政元年とし、『大日本地震史料』から『理科年表』に至る各種の地震史料はこの方式を採用している。
幕末に連発した大地震
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)には黒船来航、同年8月22日(7月18日)にはディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチンは嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた[22]。
東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる[23]。
安政以前 |
安政年間 |
伊賀上野地震
伊賀上野地震(いがうえのじしん)は、嘉永7年6月15日(1854年7月9日)14時頃に現在(2011年)の三重県伊賀市北部(経度136度、緯度34.75度)で発生した地震である。地震のタイプとしては活断層で発生した内陸直下型地震とみられる。「安政」への改元前に発生した地震であるが[2]、歴史年表では嘉永7年1月1日に遡って安政元年としており[3]、安政伊賀地震とも呼ばれる。
概要
本震は同年6月15日(新暦7月9日)暁丑刻(午前2時頃)に発生し、6-8時頃に最大余震が発生した[7]。震央は現在(2011年)の三重県伊賀市北部、マグニチュードは7 1/4(兵庫県南部地震とほぼ同じ)[8]、最大震度はメルカリ震度階級で四日市、伊賀上野はVIまたはVIIと推定されている。越後、常陸から長門に至る広い範囲で地震が記録されている。津、亀山、桑名でもメルカリ震度階級で震度Vと推定されている。同日5時頃失火の炎が見え始めた。
被害
上野城の東・西大手門の石垣が崩れ、番人4名が死亡し、地滑りなどの被害も大きかった。死者は995名。うち伊賀上野付近の死者は625名、負傷者994名、家屋倒壊2270戸、蔵倒壊306件だった[9][10]。その後の余震も同年7月10日(新暦8月3日)2時頃までは規模が大きいものが多かった[11]。
のちに「伊賀上野城下の被害絵図」もつくられた。地震により倒壊した家屋が色で塗られた絵図もある。
地震断層[
幕府・各藩の被害状況
安政年間の地震に関する幕府への領内・江戸屋敷の被害報告は『書付留』、『御城書』および『幕府沙汰書』などに記録され、各藩が拝借金を願出ている[18]。
- 伊賀上野地震
- 東海地震
- 尾張藩 : 4日・5日、余程の地震で所々破損があった。田畑6940石が存亡、材木426本などが津浪で流された(『御城書』)。
- 高遠藩 : 城内住居向破損数ヶ所、櫓・塀・門・侍屋敷・長屋破損(『書付留』)。
- 長島藩 : 城内住居向・櫓・士屋敷・在町など潰家があった(『書付留』)。
- 加納藩 : 4日・5日の地震で城内・侍屋敷・町郷潰家、堤が破損した(『書付留』)。
- 神戸藩 : 城内並び家中・城下村方・町屋・寺院など破損箇所があった(『書付留』)。
- 膳所藩 : 4日・5日の地震で本丸湖水高塀・三之丸水門・門・住居向破損、近国並び東海道宿々不容易となった(『書付留』)。
- 南海地震・豊予海峡地震
- 紀州藩 : 城内は破損なし、海岸付近の浦々は人家が多分に流失、死人多数、年貢米積船・廻船・漁船流失。16万8千石の田畑が津浪で荒れ、家26608軒が流失した(『御城書』)。
- 尼崎藩 : 4日・地震で櫓・住居向が多数破損、5日の地震津浪で城下・市郷とも数ヶ所潰家あり(『書付留』)。
- 大洲藩 : 5日の地震で城内が所々破損し、7日の地震でも城内外、侍屋敷、町郷倒家、潰家があった(『書付留』)。
- 伊予吉田藩 : 5日から7日の地震で住居向・侍屋敷・在町共、潰家多数、海岸付近は高浪で所々破損した(『書付留』)。
- 土佐藩 : 城下上町は無事、下町・種崎などで死者356人。甲浦・須崎など浦々で家が皆流失した(『続地震雑纂』)。
- 江戸地震
- 江戸 : 希有なる大地震で所々出火し、江戸城は櫓・門・塀・石垣など震崩されずというところなし。若年寄・老中らが登城し御機嫌を伺った。天水桶の水がこぼれるほどの揺れならば御機嫌伺いに参るのが当時の慣習であった[29]。御曲輪内・小川町・下谷・根津・浅草・本所・深川・吉原・千住などは潰家が多かった(『幕府沙汰書』『時風録』)。将軍家定は江戸城の吹上御庭に避難した(『丹後国田辺藩牧野家日記』)。全体の死者は武家方・社家・寺院を籠めて幾ばくの人数か分からないが、取集めなば必1万人に余るなるべし。変死人の届出数は3万人余或は5万人余とも聞え、到て甚だしきは20万余人などと聞えるが何れも皆浮説にて取るべからず(『破窓の記』)。
- 八戸沖地震
- 箱館 : 潰家・けが人は無かったが、1丈余(3m余)の高浪で床上浸水があり海岸通に不便が生じた(『時風録』)。
- 八戸藩 : 城内殿中が所々破損し湊村は海嘯のため浸水流家があった(『八戸藩史稿』)。
- 南部藩 : 場所により潰家もあり、海岸通りは高汐押し入り流家があった(『利剛公御在府御留守留』)。
- 芸予地震
- 西条藩 : 居城住居向・櫓門・他が大破。拝借金を願出た(『幕府沙汰書』)。
- 大洲藩 : 城内住居向・石垣破損。土地が破裂し侍屋敷・町郷大破が夥しかった(『御城書』)。
- 飛越地震