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稲作の歴史

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稲作の歴史

起源

 以前は、稲作の起源は植物相豊富中国雲南省といわれてきたが、最近の考古学的調査により、雲南省の稲作遺跡は4400年前以上に遡れないことが明らかになった。
ところが、江西省湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見されており、古いものは1万2000年前に遡る。これらは焼畑による陸稲栽培と考えられている。
 
 また水稲に関しては、揚子江下流の浙江省寧波河姆渡(かぼと)村で、炭素14年代測定法で約7000〜6500年前の水田耕作遺物(水田遺構は発見されていない)が1980年代に発見された。また最古の水田遺構は、馬家浜文化中期にあたる約6000年前の揚子江下流江蘇省呉県の草鞋山遺跡で見つかっている。これらのことから、水稲の水田耕作は揚子江中・下流域に起源し、日本へもこの地方から伝播したとする説が現在では注目されている。

日本への伝来

稲の伝来に関して、以下の説が主なものとして存在する。
1. 揚子江下流域から直接九州北部に伝来(対馬暖流ルート)。
2. 江南から西南諸島を経て九州南部へ(黒潮ルート)。
3. 揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下して九州北部に伝来。
4. 揚子江下流域から山東半島(斉の田)を経て、朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝来。

 2.の江南からの黒潮ルートは柳田國男の提唱した海上の道で名高かったが、沖縄での稲作を示す考古学的資料が出ていないため関心が薄かった。しかし、岡山県で6000年前の陸稲(熱帯ジャポニカ種)のプラント・オパールが次々に発見された等により、水稲伝来も考えられるとして再び注目されつつある。
 
 3.遼東半島から朝鮮半島を南下するルートは、遼東半島の大嘴子遺跡で3000年前の炭化米が発見されている。しかし朝鮮半島南部および日本の北部九州のものとは品種が異なり、朝鮮半島を南下したとは考えにくい。
 
 4.については、山東半島の楊家圏遺跡、朝鮮半島南部の大坪里遺跡、無去洞玉峴遺跡、松菊里遺跡などで、日本のものと近いか先行する時期の水田跡や炭化米が発見されている。
 しかし日本で発見された水稲の中には、RM1-b遺伝子を持つ品種が混じっていたが、朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。そのため他のルートでの伝播もあった可能性が高い。
 
なお温帯ジャポニカの遺伝子のSSR領域にはRM1-a~hの8種類のDNA多型が存在する。
  • 中国にはRM1-a~hの8種類があり、bが多く、aがそれに続く。
  • 朝鮮半島にはbを除いた7種類が存在し、aがもっとも多い。
  • 日本にはa、b、cの3種類が存在し、a、bの二種類が多い。aは東北も含めた全域で、bは西日本を中心に発見されている。
 RM1を含めた三つのSSR領域においても、日本の温帯ジャポニカは他の二地域に比べて多様性が失われている。これは渡来時の稲が極少数だったことによるボトルネック効果と推測されている。
農学者の佐藤洋一郎は、
  1. 縄文前期に熱帯ジャポニカが南西諸島から伝播し、水陸未分化の粗放稲作が行われた。
  2. 縄文晩期に温帯ジャポニカが朝鮮半島南部(RM1-a)と揚子江下流域(RM1-b)から伝播した。
  3. その後も水田稲作と共に、熱帯ジャポニカと混合した粗放稲作も続いた。
 と、複数のルートから伝わったとしており、DNAの結果から日本列島に運んでこられた水稲の量はわずかで、小さな集団でしかなかったとしている。 
 
 山川出版の詳説日本史B。では、山東半島経由説を初めに挙げ、それに続けて、遼東半島経由説、直接伝播説、南西諸島経由説などもある、としている。また、実教出版の日本史Bでは、山東半島経由説の方が直接伝播説よりも有力だとしている。
 
 2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが見つかり、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。それに加え、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む満洲からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の論拠から、水稲は大陸(中国南部以南)から直接伝来したとする学説(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)が見直されている。
 
 国立歴史民俗博物館による炭素14年代測定法での測定では、日本最古の水田稲作遺跡は2800~2900年前とされ、弥生時代の開始は従来の説より大きく遡るとした。この際には朝鮮半島南部の併行する時代の試料も測定が行われ、こちらも通説より古い年代のものと確認された。

日本における歴史

 日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となってきた。
 
 また朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代中期以前まで遡るとする説も出てきて、稲作が生業であったかどうかは別にしても、縄文時代後期・末期頃に陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていたことはほぼ確実だと推定されるようになった。
 水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。縄文時代の栽培穀物は、イネオオムギアズキアワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000〜2300年前)に属する。
 
 日本最古の水田址遺跡は約2500年前であり、近年の炭素14年代測定法によっても、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが紀元前10世紀まで遡る可能性も出てきた。弥生時代前期初頭の水田遺構は、福岡平野板付遺跡野多目遺跡早良平野橋本一丁田遺跡等で発見されている。
 
 「最初から稲作の方法は変わっていない」とする池橋宏によれば、最古の水田である弥生初期の岡山県津島江道遺跡はいわゆる小区画水田で、それには水口もついている。同じ初期の福岡市の野多目遺跡は大区画水田であり、現代と同じ水田システムがあったとしている。
 
 
 



石器時代
(稲作のはじまり)
稲の栽培は、野生の稲の種子を播いて収穫した原始時代がはじまりです。
木の実やけもの、魚、貝を採って食べる時代から、食糧を生産する時代へと大転回を果たし、人々は一定の土地にとどまるようになりました。
石器時代イラスト


石器時代
(日本への伝来)

 今の「日本の米」であるジャポニカの栽培は長江の中・下流域で始まったとされています。
稲作の日本への伝来と伝播にはさまざまな説があります。

 インドのアッサムや、中国・雲南の山岳地帯に始まった稲作が、
  • 長江に沿って東へ進み、やがて朝鮮半島を経て西日本に上陸した。
  • 長江下流から北九州の対馬を越えて直接海を渡ってきた。
  • 台湾経由での島伝いに来た。
  • 朝鮮半島から直接日本海沿岸にたどり着いたという「北方の道」。
石器時代イラスト
 などさまざまです。アジアの稲作圏に最後に仲間入りした日本は、一つではなく複数のルートで稲作を受け取ったのかもしれません。
日本に上陸した稲は、各地に広がって定着します。それは余剰を生み出す社会の始まりであり、日本という国家誕生の始まりでもありました。

石器時代
(紀元前3世紀から紀元後4世紀)
 弥生時代中頃には、東北地方の北部まで稲作が広がっていたと思われます。
 1943年に発見された静岡県の登呂遺跡の弥生水田は、矢板や杭で補強した畦(あぜ)できちんと区分され、用水路や堰(せき)も整備されていました。
 12戸の竪穴式住居のあとのほかに、約7万平方メートルの田と、2つの高床式の倉庫のあとが発見されています。美しい農村風景が見られたようです。


石器時代イラスト
 米は貯えることができ、貯えの大小によって貧富の差が生まれました。また、農業に必要な治水、灌漑(かんがい)などの共同作業のために村ができ、それを統率する首長があらわれました。
 村同士は戦ったり、協力したりしながら、より大きな村になり、やがて小さな国になっていきました。
紀元後3世紀の日本には30の国があり、最強の国が女王・卑弥呼(ひみこ)が統率する邪馬台国(やまたいこく)だったと伝えられています。
 国々はやがて統一されて「日本」という大きな国が作られていきます。米は日本の社会の基礎となりました。
 
 弥生時代の農具のほとんどがカシ材を加工した木製品です。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足によって田んぼに踏み込まれます。
 籾(もみ)は田んぼにじかに播かれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取りました。脱穀には、木臼(うす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されました。
石器時代
(4世紀から6世紀)
 田んぼの生産力が上がり、食糧が安定して供給されるようになると、社会が発達して各地に豪族が興りました。
 当時の人々の脅威となったのが洪水です。お米が実った田んぼに洪水がやってくると、その後の1年間、食糧が不足します。

 豪族たちは鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ、水路の整備も広範囲に行いました。そうして、川からずいぶん離れた平野や盆地にまで田んぼが作られるようになったのです。後に豪族たちはこの土木技術を応用して、古墳を作ります。


石器時代イラスト
 やがて、豪族たちの小さな国が統一されて大和朝廷となり、いまの日本の基礎ができました。
 古墳時代の水田に牛の足跡の残っているものがあることから、畜力利用の農作業が始まり、それにともなって馬鍬(まぐわ・マンガ)や中国の華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂)も伝えられたようです。また、北部九州を中心に鉄製の穂摘具や鉄鎌もあったようです。
石器時代
(6世紀から710年)
 米は栄養価が高く、生産性に優れ、長期間の保存に耐え、そしておいしかった。米を基本通貨とし、米を税として納めるという社会が始まり、それは明治政府による地租改正まで続きます。
 
班田収授の法 647年(大化3年)
 律令制では全ての土地と人が国家のものとされていました。大和朝廷は人々に一定の田=口分田(くぶんでん)を与え、籾米で租(税)を納めさせました。口分田は売買を禁じられていました。人々に口分田を与えるのに利用された土地割を条里制といいます。

 この時代の農具は、田んぼを耕すことが目的のきわめてシンプルなものがほとんどでした。穂を刈り取るのではなく、現在のように根っこのほうの部分を刈り取る方式が一般的となり、そのための農具として鉄製の鎌が普及していきます。
石器時代イラスト

 
 
 

石器時代
(710年から794年)
 奈良時代における国家の繁栄はめざましいものでしたが、粗・庸・調や労役の負担に苦しむ農民のなかには、口分田や家を捨てるものが増えてきました。
 また人口も増加したので、722年(養老6年)、朝廷は田地を増やすために百万町歩開墾計画をたて、723年(養老6年)には、三世一身法を出して開墾をすすめました。さらに、743年には墾田永世私有令をだしました。

石器時代イラスト
墾田永世私有令 743年(天平15年)
 開墾した個人が田を永久に所有できることになりました。これは、律令制度の土地公有の原則を破る重大な改革でした。この結果、有力な貴族や寺社は先を争って開墾を始め、私有地である荘園が広まっていきます。
 奈良時代には田植えが本格化します。人々は手強い雑草であるヒエと戦いを続けるうちに、水田の雑草を抜いてから、別の場所で大きく育てた稲を植える方法を編み出しました。こうすれば、次のヒエが芽を出したときには稲はもう大きくなっています。田に平均して育てることもでき、倒伏も少なくなります
農地を広げるために地方への進出が繰り返されました。稲栽培を稲にむかない寒い土地に少しでも広げようとしたため、結果的には寒さに強い品種が開発されました。
 田んぼの面積は、現在の3分の1である100万ヘクタールに達していたようです。
 

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