Q1 紀元前の南九州における文化の伝来について(中国・朝鮮など大陸との関連があるか)
・縄文時代早期終末から前期にかけて出現する「?状耳飾(けつじょうみみかざり)」については,古代中国の?(けつ)を起源とするとされてきたが,現在のところ,日本の方が年代的に古いことから自生説もあります。
・縄文時代前期に九州から南西諸島,及び朝鮮半島内部にも出土例のある曽畑式土器には,朝鮮半島の櫛目文土器の影響があるとされます。
・縄文時代晩期において,南九州などに見られる孔列文土器(土器の縁の下に小さな穴が巡らされた土器,南九州では貫通しないものが多い)は韓半島の孔列文土器の影響を受けたものとされます。
・また,南九州に限定されない問題ですが,弥生時代の水稲稲作,大陸系磨製石器,金属器などの伝播は,朝鮮半島からとされ,南九州へは,北部九州を経由して伝わったと考えられます。
■曽畑式土器■
曽畑式土器 (一湊松山遺跡出土) | 幾何学的文様を見せる曽畑式土器の 様々な施文(一湊松山遺跡出土) | 1 刺突文 2 平行線文 3 四角・三角組合せ文 4 平行線文 |
曽畑式土器が発見されている地域は,朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,さらに,沖縄県読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡,同県北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡など,南北950キロメートルにも及ぶ広大な範囲に及びます。そのため,この土器の起源及び伝播ルート解明は,長年,考古学での研究の焦点となってきました。
一般的な説としては,縄文時代の前期に朝鮮半島の櫛目(くしめ)の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り西北九州に上陸。当時同地で使用されていた土器に影響を与え,その結果曽畑式土器が成立したとされています。朝鮮半島と西北九州縄文人との活発な交流関係を想定し,朝鮮半島南部→西北九州→中九州→南九州→沖縄へ伝播したと考えられています。
確かに一湊松山遺跡で発見された曽畑式土器は,屋久島には無い滑石(かっせき)を混ぜて作られた搬入品が出土しています。さらに,その形状を模しながらも,屋久島に特徴的な長石と金雲母が混ざった土で焼き上げられた独自の地元産の土器も,上下の地層から発見されています。このことは,島外産の土器と地元産の土器が時期をずらして交互に使用されていたことを意味し,曽畑式土器の南下説を考える上で注目されています。
ところが,これらの土器が使用されていた時間差を発見された状況から検討してみると,島外産と地元産が入れ替わるサイクルが以外に早いようで,従来の伝播(南下)説だけでは説明しがたい状況が見えてきます。
この謎を解き明かす事実として,近年,金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡から,古い時期の曽畑式土器が発見されたことは重要な意味をもちます。それは西北九州から南下した曽畑式土器とその文化が,中心的な拠点を九州の東シナ海沿岸に拡散し,西南九州が大きなまとまりとして曽畑式土器文化圏を形成していき,その中で一湊松山遺跡に生活していた人々が九州本土と南西諸島を結ぶセンター的役割を担っていたとも考えられるからです。
この謎を解き明かす事実として,近年,金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡から,古い時期の曽畑式土器が発見されたことは重要な意味をもちます。それは西北九州から南下した曽畑式土器とその文化が,中心的な拠点を九州の東シナ海沿岸に拡散し,西南九州が大きなまとまりとして曽畑式土器文化圏を形成していき,その中で一湊松山遺跡に生活していた人々が九州本土と南西諸島を結ぶセンター的役割を担っていたとも考えられるからです。
縄文人の海上交流
ところで縄文人の海上交流はいつ頃から始まっていたのでしょうか。それは縄文時代の始まりと言われる草創期に早くも確認されています。
【写真 栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧】
「丸ノミ形石斧(せきふ)」。草創期の遺跡として県内で著名な加世田市栫ノ原遺跡,鹿児島市掃除山遺跡,志布志町東黒土田遺跡,さらに縄文時代早期後半(約7,000年前)に相当する鹿屋市前畑遺跡,種子島の西之表市立山遺跡等で出土しているこの石斧は,丸木舟の製作工具と考えられています。
【写真 一湊松山遺跡遠景】
これらの地域以外でも奄美諸島,沖縄諸島のいわゆる黒潮文化圏にも分布しており,丸木舟も全国で約40遺跡から100隻を越え発見されています。これまで九州で発見されている最古の丸木舟は,長崎県多良見(たらみ)町伊木力(いきりき)遺跡から発見された縄文時代前期のものとされます。曽畑式土器の広範な分布状況から見て,この時代,丸木舟を自在に操る海洋性に富んだ人々の移動があったことは,容易に想像できます。
Q2 紀元前で南九州が北九州より勝るものがあるか。
・優劣の判断は難しいと存じますが。
・縄文時代草創期(約13,000年前),南九州では,竪穴住居や炉穴,集石など定住的な生活がうかがわれ,安定した土器の使用量が認められるなど,温暖な環境を背景としたいち早い文化の発達が認められます。
・縄文時代早期前半(約9,500年前),南九州では上野原遺跡に代表される多数の竪穴住居が発見され,継続性の高い集落遺跡の存在します。堅果類(ドングリなどの木の実)を主要な食糧とする縄文時代的な生業が定着がその背景にあるとされます。
・縄文時代晩期~弥生時代前半期におきまして,水稲稲作やそれに付随する技術,土器文化の情報は,北部九州と大きな時間差をもたず南九州にも伝わっているようです。
・しかし,南九州は,水稲耕作適地が少ないなどの環境要因もあり,その後の水稲生産の拡大,集落や社会システムの発展については,遅滞的であるといえます。
・特に青銅器の導入については,遺跡からの出土例が極端に少なく,北部九州とは大きな差違があります。
上野原遺跡
概要 [編集]
列島各地との交流を示す考古資料(奥津町久田原遺跡・久田堀ノ内遺跡:縄文時代後晩期)(『よみがえる久田の歴史』より引用、一部改変) |