原因企業チッソの労働組合はどのような役割を担ったか。
(1)経緯
昭和34(1959)年8月19日、新日窒労組は代議員会において、原則として漁民の闘争を支援することを可決した。
昭和34(1959)年11月2日の漁民暴動事件を受けて、新日窒労組は、同月4日、緊急代議員会を開き、原因の早期究明、患者対策、漁業対策を推進しなければならないが、このような不祥事を惹起したことは遺憾に堪えないと表明した。
昭和34(1959)年11月6日、新日窒労組は、工場の操業停止絶対反対を決議して、チッソ社長、県知事、県漁連会長に提出した。
昭和34(1959)年暮れ、チッソの一時金交渉時において会社側の出した条件は、①経営内容を組合のビラに書かない②工場前に座り込んでいた患者家族に貸しているテントを取り返す、というもので、新日窒労組もこの条件をのんだ。当時は労使一体で生産優先、会社擁護の姿勢があった。
昭和37(1962)年4月から翌昭和38(1963)年1月、チッソの安定賃金制度をめぐる激しい労使紛争がおこった。新日窒労組は新日窒労組(第一組合)と新日窒新労組(第二組合)とに分裂し、商店や市民をも二分する騒動に拡大したため、チッソ労働者間ばかりか市民間にも根深い対立感情を残した。また、この間、水俣病はほとんど市民の関心から遠ざけられ、チッソ内部の原因究明研究も中断し、消滅した。
昭和43(1968)年8月29日、チッソは新日窒労組の抗議でチッソが保管していた水銀廃液約100トンを韓国に輸出する計画を中止した。翌日の定期大会で、新日窒労組は、「何もしてこなかったことを恥とし、会社に水俣病の責任を認めさせ、水俣病の被害者を支援し、水俣病と闘う」旨を決議した。
ア.労働争議による水俣病事件への無関心化の加速
昭和34(1959)年、漁業紛争解決、工場排水浄化装置の設置、見舞金契約の成立によって、チッソは水俣病の幕引きを進めていった。これに加えて、安定賃金制度をめぐる労使の大争議勃発により、水俣病問題はますます住民の関心から遠ざかっていった。
イ.労働争議の敗北による第一組合の水俣病患者への共感
安定賃金闘争以後、労働組合が分裂する中で、第一組合に加えられた差別待遇が患者のおかれた状況を理解するきっかけになり、第一組合の中に水俣病患者への共感が広がった。水俣工場では労災が頻発しており、「内に労災、外に水俣病」という構造的な視点から、第一組合は、会社批判を強めていった。
第一組合が行った「恥宣言」は日本の労働組合運動全体としても画期的なものである。労働組合の運動に誤りは無いという組織の無謬性が否定されたのである。
日本の労働組合は、企業別組合であり、公害・環境問題については、企業と共同歩調をとって被害者に対抗するおそれが常につきまとう。
しかし、労働組合が環境汚染対策に関わることは、自らの社会的立場を高めることにもつながる。そのためにも、組合は自らの利益だけに注意を払うのではなく、企業をとりまく社会的状況なども十分認識して行動するだけの意識を持つ必要がある。