水俣の環境汚染に対し警察・検察はどう機能したか。
(1)経緯
昭和34(1959)年11月2日、 県漁連は、チッソに操業中止の団交を申入れたが、チッソが拒否したため工場内に乱入し警官隊と衝突し、100名以上の負傷者を出した。翌年1月、県警は、田浦・芦北漁協長ら漁民35人を逮捕した。
昭和34(1959)年の見舞金契約時に患者側に対しては、法律家は何の支援もしなかった。
昭和38(1963)年2月、入鹿山且朗教授の工場内でメチル水銀確認との発表を熊本日日新聞が記事にしたとき、熊本地検の検事正が、「これまではっきりした原因がわからず、手を出しようにも、手のつけようがなかったが、もし医学的研究の結論が出れば、結果次第では大いに関心をもたねばならない問題だろう」というコメントを出している。しかし、具体的な動きはなかった。
(2)考察
ア.公害事件における刑事訴追される被害者と刑事責任を追及されない加害者という傾向
1) 漁民乱入事件では、騒いだ漁民が逮捕された。確かに、いかなる場合でも暴力行為は慎むべきであるが、これまで騒ぎを大きくしたのは企業側が漁民の要求に一切応じなかったことに原因がある。水俣病事件では、被害者である漁民が真っ先に訴追を受け、断罪された。一方、チッソの責任は追及されなかった。
2) 警察や検察は、不知火海沿岸漁民の抗議事件を含めて、一貫して水俣病事件を「治安問題」としてみており、被害の拡大防止の立場からの行動はなかった。検察や警察が動かなかったのは、原因問題が未解決という意識があったともみられるが、公害犯罪という大きな枠組みで事態を見切れなかったとも考えられる。
こうした姿勢は、昭和52(1977)年6月の自主交渉川本裁判の東京高裁判決でも、批判されている。また、昭和62(1987)年3月の熊本第三次訴訟第1陣判決では、昭和34(1959)年11月頃には未処理の排水を流し続けるチッソ水俣工場に対して警察官職務執行法に基づく取り締まりをし、規制の実効性を高められたはずであるとして、熊本県警の不作為を問う判断が示されている。
1) 水俣病のような事件においては、行政も、刑事告発をするなどの司法手段をとることを、もっと積極的に考えるべきである。
また、警察・検察としても、被害の拡がりを防ぐためには、発生源が絞られた段階で警察が捜査権を発動して工場内に立ち入り、製造工程や排水処理に関する証拠を収集し、工場幹部を取り調べるべきであった。
チッソへの捜査を開始するタイミングとしては、さらに、排水路の変更により新しい患者が発生した昭和34(1959)年、入鹿山教授らによって発生源が突きとめられた昭和37(1962)年があった。翌昭和38(1963)年2月、熊本地裁の検事正は、「今まで手が着けられなかったけれども、結論が出たなら大いに関心を持たなければならない」とコメントした。しかし、この時も結局は動かなかった。
警察・検察が昭和37(1962)年に動かなかった理由に、水俣病は昭和35(1960)年に終息したという説が社会的にかなり信じられていたということもある。このことは、その後の対策を進める上で、大きなマイナス要因として働いた。この時点できちっとした強制捜査をしていたら、あるいは、もっと早い時期に強制捜査をしていたら、水俣病の被害の拡大は防止され、水俣病事件の状況は非常に変わったであろう。しかし、同時に、犯罪として起訴する以外にも有効な防止方法はなかったか、というのも重要な視点である。
実際に検察がチッソ幹部を起訴するのは公式発見から20年も経った昭和51(1976)年で、しかも患者側から告発されてからであった。検察はチッソの元社長と元工場長を起訴したが、遅すぎたが故にもはや犯罪抑止効果はなかった。
2) 水俣病では昭和35(1960)年以降は継続的な監視体制がなかったが、もしあれば昭和38(1963)年入鹿山報告への対応も変わり、その段階で捜査が入っていれば、第二水俣病の発生は最小限に抑えられた可能性がある。
3) 行政は、原因究明と並行して、段階的な対策をしつつ決断をすべきであったが、やる責任が誰にあるかということは当時の法制度では不明であり、所管する法律の権限に閉じこもっていた。
警察・検察の役割は犯罪の捜査・摘発であり、事態発生後に後追い的に機能する。しかし、環境問題では、加害行為が継続的に行われることが多いため、警察・検察が能動的に働かないと手遅れになることがある。
2)公害の原因者にこそ必要な刑事訴追の活用
刑事訴追は、治安対策として、被害者側に厳しく行われることが多いが、公害の原因者に対して、より厳しく臨む姿勢こそ必要である。
行政は決断に際しては、必要なときは刑事告発も辞さないという決意で臨むことが必要である。
4)公共訴訟の制度化
行政庁が原因企業を訴えることができるシステム(公共訴訟)も必要である。