平成6・7年度の調査
平成6年度の調査において、はじめて海底に埋没した状態で碇が発見された。
遺物が出土した地点は、およそ水深-20m~22mの間であった。
1号~4号碇は、先端の部材がほぼ残存する良好な遺存状況のもので、列をなして検出された。全て同一方向に打ち込まれたものであり、また層位から見ても同一時に投錨されたものと考えられる。いずれもアカガシ製である。
このうち3号碇がもっとも大きく、現存長2.6m、幅3.12mで、復元的に考えると堆定8~9mの長さになると思われる。先端部の残りが良いのは、海底の砂層に突き刺さっていたためで、基部側は腐食や虫害によって失われている。
これらに装着されていたものを含め、碇石は合計17点出土している。花崗岩・石英班岩・疑灰質砂岩・石灰岩などの石材があり、長さ1.3m・0.7m・0.5mの3種の規格が見られる。1号~4号碇によれば、木製碇の軸部先端にⅤ字に歯が取り付けられているが、碇石は歯と直行するように2個が装着される形態であった。
今回の調査以前に、鷹島海底から16個の碇石が発見されていたが、それらの特徴としては、
①よく整形された扁平な箱形なものが多い、
②完形品はなく中央部から折れた状況で片方のみの出土である、
③大形のものは少なく長さ80cm程度のものが多い、
といった点が一般的に認識されていた。
こうした特徴のうち、とくに半載品が多いという認識は、博多湾をはじめ西北九州の沿岸地域などから発見される碇石が、蒙古碇石とよばれる角柱状の大形の碇石であり、こうした形状が本来の姿であると考えていたからであった。
しかし、今回の調査において、碇石が実際に木製碇と装着された状態で発見されたことにより、ひとつの碇に1個の碇石が装着されるという認識が誤りであり、鷹島海底出土の碇石の場合は、2個の碇石が対となって左右に装着されることが判明したのである。
碇の材であるアカガシ亜属は、中国南部、韓国南部、九州~沖縄あたりの亜熱帯か暖帯に広く分布するもので、産地を推定することは困難であるが、花崗岩については、化学分析とK-Ar法による放射年代測定の結果、中国南部産である可能性が高いとされている。
以上のように、今回の碇の埋没状態は、かつてこの海域で大海難事故が起こった事実を示すもので、弘安4年(1281)の元寇の事実を改めて想起させる発見となった。
また、今回木製碇と碇石が組み合わさって出土したが、同様な事例はこれまで東アジアの中でも報告されておらず、その構造が判明したことは、当時の船の碇の研究上極めて重要なものとして特筆される。
なお、木製碇をはじめとする木製遺物の保存処理については、平成8年・9年度に国庫補助により建設された鷹島町の埋蔵文化財センターで現在脱塩処理中である。
でた! 管軍総把印
鷹島の管軍総把印
県指定有形文化財・歴史資料
指定年月日平成元年3月31日
所在地鷹島町神崎免146
所有者鷹島町
指定年月日平成元年3月31日
所在地鷹島町神崎免146
所有者鷹島町
昭和49年,鷹島町の神崎海岸で迎国市氏が発見した。青銅印で,印台は6.5センチ四方,厚さ1.5センチ。鈕の高さ4.4センチ,幅3.1~3.4センチ,厚さ1.2~1.4センチ。重量726グラムのものである。
印面には元国字のパスパ文字が刻まれている。佐々木猛氏によれば「管軍総把印」の意である。
また鈕の右側に漢字で,「□軍□把□」とわずかに判読でき,第三番目は総の様にみえる。全体として印面同様,「管軍総把印」と記されていたらしい。
一方,鈕の左側に,同じく漢字で,「印」「至元十四年九月造」の字がみえる。これは元のフビライ治世下の西暦1277年で,弘安の役(1281)の4年前にあたる。
また総把とは,今日の中隊長程度の将校の意で,これがその部下を統轄(管軍)するもので,この地位にあった者が,弘安の役の際持込んだと思われる。
管軍総把印は,従来二点発見されているが,わが国内では最初の発見例で,元寇関係資料として誠に貴重である。
元寇資料館より
赤や黄色は元軍の船です
元寇資料館より
元寇最後の激戦地、鷹島(2009.09.02.更新)
松浦市立鷹島歴史民俗資料館・松浦市立鷹島埋蔵文化財センター
元軍の2回目の襲来となった「弘安の役」では、総勢4,400隻の船と約14万人といわれる元軍の大半が、暴風雨によって鷹島周辺の海に沈みました。
1980年(昭和55)、鷹島の海は“水中考古学調査の最大の宝庫”として選ばれ、翌年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見されました。この貴重な資料を収集保存して調査研究を進めるとともに、一般に公開して元寇の歴史を伝えていくために歴史民俗資料館が開館しました。
1980年(昭和55)、鷹島の海は“水中考古学調査の最大の宝庫”として選ばれ、翌年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見されました。この貴重な資料を収集保存して調査研究を進めるとともに、一般に公開して元寇の歴史を伝えていくために歴史民俗資料館が開館しました。
松浦市立鷹島歴史民俗資料館に展示されている引き揚げられた元寇遺物
ここには、海底の中から引き揚げられた遺物のほか、考古資料や民俗資料などが展示されています。青銅印、壺、陶磁器片、石製品、鉄製品、てつはう(炸裂弾)、剣などなど・・・。また、海底遺物の調査、引き揚げ、保存処理などの流れが理解できるよう、水中考古学調査に関する展示もあります。
隣接して建っている松浦市立鷹島埋蔵文化財センターでは、引き揚げ遺物の調査・研究・保存処理をおこなっています。元寇船の大型木製碇や船体の一部などに脱塩処理を施しているところなど、保存処理作業の様子を見せてもらいました。
左)脱塩処理中の遺物:真水に浸けて塩分を抜いています。
右)引き揚げられた元軍の船の碇石:元寇の歴史を感じることができます。
右)引き揚げられた元軍の船の碇石:元寇の歴史を感じることができます。
【主な遺物】
■ 管軍総把印(かんぐんそうはいん)
この印は、鷹島南岸の神崎(こうざき)海岸で貝堀りをしていた漁民によって発見されました。元の官用書体であったパスパ文字で「管軍総把印」と刻まれています。また印背部分の横には漢字体で「至元十四年九月□造」の紀年号と、印面の「管軍総把印」の文字が刻まれています。至元十四年は、西暦1277年にあたり、元寇の時期と一致します。
1989年(平成元)3月31日、長崎県の有形文化財に指定されています。
1989年(平成元)3月31日、長崎県の有形文化財に指定されています。
■ 大イカリ
1281年(弘安4)の弘安の役の際、台風で沈んだ元軍船のイカリだと見られています。平成6年11月神崎(こうざき)港改修工事に伴う鷹島海底遺跡の発掘調査によって発見された複数のイカリのうち最大のものです。
大イカリは途中で欠けてしまっていますが、その長さ(中心部の碇身(ていしん))は2.66m、もし欠けていなければ推定で7.3mはあったとみられます。また、重量はおもりとなった2つの碇石(いかりいし)の338キログラムを含めて1トン近くだったと思われます。この大きなイカリを使って停泊していた船の大きさは、40メートルほどと推測されるそうです。
大イカリは途中で欠けてしまっていますが、その長さ(中心部の碇身(ていしん))は2.66m、もし欠けていなければ推定で7.3mはあったとみられます。また、重量はおもりとなった2つの碇石(いかりいし)の338キログラムを含めて1トン近くだったと思われます。この大きなイカリを使って停泊していた船の大きさは、40メートルほどと推測されるそうです。
【大イカリ発見から展示まで】
平成6年11月 | 発見 | |
平成6年12月 | 引き揚げ | |
平成6年12月~平成9年8月 | 脱塩処理 | |
平成9年9月~平成10年7月 | PEG前処理 | |
平成10年8月~平成20年8月 | PEG処理 | |
平成20年9月~平成21年3月 | 真空凍結乾燥処理 | |
平成21年5月3日~ |
一般公開
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歴史とロマンを語る ようこそ鷹島へ フグも美味しいらしい
松浦町立元寇資料館にはまた行きたいと思います。