チベット動乱
チベット動乱(チベットどうらん)は、中華人民共和国政府のチベット統治、支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」の強要をきっかけとして1956年に勃発し、1959年に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。
略歴 [編集]
チベット動乱 [編集]
- 1949年:中華人民共和国設立後の中国共産党政府による支配確立に対するチベット人による抵抗。
- 1950年:中国人民解放軍がチベットを制圧、全域を自国に併合。
- 1955年:十七ヶ条協定における「改革は強要しない」地域から除外されたチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における社会主義改造の開始
- 1956年:チベット北半部における抗中蜂起。
- 1957年からは東西冷戦構造に組み込まれ、アメリカ合衆国CIAからの訓練や資金、武器の供給を受けるようになる。
- 中華人民共和国政府、ガンデンポタンにチュシ・ガンドゥクの鎮圧を「命令」。
- 1959年:中華人民共和国政府、ガンデンポタンに首相ルカンワの解任要求。
- 1959年:ラサ駐屯の中華人民共和国機関、ダライ・ラマ14世を「観劇に招待」。
- 1959年:3月ダライ・ラマ14世が中華人民共和国に拉致されることをおそれたラサ市民がノルブリンカ宮を包囲(1959年のチベット蜂起)。ラサ駐屯の中国人民解放軍、市民に解散を要求、さもなくば砲撃すると通告。
- ダライ・ラマ14世、ガンデンポタン、チベットを脱出。
- 中華人民共和国国務院、「西蔵地方政府の廃止」を通告。
- ダライ・ラマ14世、インドへの国境越えの直前、チベット臨時政府の樹立を宣言。
その後
- 1960年:中華人民共和国がチベット南半部における支配をほぼ確立。
- 1972年:米中の国交樹立により、アメリカ合衆国CIAによるチュシ・ガンドゥク支援中止。
- 1974年:チュシ・ガンドゥク解体、ゲリラ活動の中止。
- 2008年:チベットや四川省、青海省において、中華人民共和国に対する抗議運動をきっかけに騒乱が起き、同国政府の治安部隊によるチベット人への催涙弾による鎮圧が行われた(2008年のチベット動乱)。
統計
チベットおよび西側政府
チベット人の一部および西側政府は、彼らの主張によればチベット全域(中央チベット[1]に加え、アムド[2]、カム[3]も含む範囲)最高で120万人のチベット人の失踪をもたらした侵略の後、中国政府の恐怖政治を告発したが、中国は、この主張を強く否定している。
1953年におけるチベット公式の国勢調査では中央チベットの人口は127万人と記録されており、中国政府の主張にしたがう学者はこれを根拠として虐殺被害者「120万」という数字の信憑性を疑問視する[4]。 しかし、上記の通り、チベット亡命政府の採る犠牲者120万人という数は、ガンデンポタンが統治していた中央チベットだけではなく、アムド、カムをも含んだチベット全域の数字である。
サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世
1950~1976年の間の侵略および占領の直接的な結果としての死者数は、次のように推定されている。
- 173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
- 156,758人が処刑死。
- 342,970人が餓死。
- 432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
- 92,731人が拷問死。
- 9,002人が自殺。