白村江の戦い
戦争:白村江の戦い | |
年月日:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日) | |
場所:白村江(現:錦江近郊) | |
結果:唐・新羅連合軍の勝利 | |
唐 新羅 | 倭国 百済遺民勢力 |
劉仁軌 文武王 | 上毛野君稚子、阿倍比羅夫 扶余豊璋 |
唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人 | 倭国軍 42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人 |
不明(倭国・百済連合軍の被害よりは小規模) | 船舶 400隻、兵 10,000人、馬 1,000頭 |
白江口之戰 |
白江口之战 |
Báijiāngkǒu zhī zhàn |
ㄅㄞˊ ㄐㄧㄤ ㄎㄡˇ ㄓ ㄓㄢˋ |
Battle of Baijiangkou |
백강 전투 |
白江戰鬪 |
ペッガンチョントゥ |
はっこうせんとう |
Baekgang jeontu Paekkang chŏnt'u Battle of Baekgang |
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。
この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。
この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。朝鮮側では「白江」、中国側では「白江口」と表記され、この戦いの名称も異なる。なお、「はくすき」は当時の地名の「白村」の呉音「はくすん」および「城」(まち)を表す「き」の合成語である。
背景
『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。 しかしこの地域は、豪族による百済への割譲と新羅の進出によって弱体化し、562年以前に新羅に滅ぼされた。
一方581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(麗隋戦争)を行ったもののいずれも失敗した。これが有力な原因となって隋は弱体化し618年には煬帝が殺害されて滅んだ。
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし高句麗遠征により、高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで、唐と新羅との関係が親密化した。
また、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、両国の間はさらに親密化した。
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路攻撃すると可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる[1]。
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのもこの情勢に対応しようとしたものと考えられている。
戦いの経過
660年(斉明天皇6年)に、唐・新羅連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされた。こののち、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
これは倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。
中大兄皇子はこれを承諾し、661年に斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。
この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
- 第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊。661年5月出発。
- 第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。662年3月出発。
- 第三派:1万余人。指揮官は廬原君。
倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。
倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。
九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。
白村江で大敗北した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
当時の唐は至るところで諸民族を征服しており、丁度このころの唐の勢力圏は中華史上最大のものであった。この時参加した唐の水軍も、その主力は漢族で構成されていたという。