戦前の子供たち
拙稿、日本の家族の危機(上)では、占領下での家族に関する問題点を述べさせていただきました。
今回は民法について述べさせていただきます。
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今回は民法について述べさせていただきます。
憲法と同時に、占領政策によって民法の改正が強行されました。これによって、わが国の伝統が深層まで破壊されました。その結果、利己主義的な風潮が助長され、道徳の低下や社会の混乱が促進され、今日に至っているのです。
戦前のわが国には、「家(イエ)制度」というものがありました。明治31年制定の明治民法は、家制度を法律的に定め、家によって家族を最大限に尊重するものでした。明治民法が法的に制度化した「家(イエ)」は「複合家族」といわれ、家族・親族が一つの家に住んでいるものだった。また、この家族は「直系家族」といわれ、両親・祖父母・孫が一緒に住み、世代間の縦のつながりが一番重んじられていました。また、戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などが定められていたのです。
戦後は、この家をもって、封建的で、個人を束縛するものと決め付けています。しかし、明治民法の目的は家を強化することによって、個人を抑圧するというような一面的なものではありませんでした。この民法は、幕末以来のわが国の重大課題である不平等条約改正をめざすという政治的要請によって創られました。明治日本は不平等条約改正に国力を費やしたと言っても過言ではありません。人権先進国といわれるフランスの民法、つまりナポレオン法典等が参考にされたのです。明治民法の制定には、伝統を重んじながら、国際社会で伍していくために日本を近代化しようとする明治の日本人の工夫があったのです。
こうした民法に対し、法学者であり、東京帝国大学法科大学長、貴族院議員、法典調査会査定委員、日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画した穂積八束は、「民法出デテ忠孝亡ブ」として批判しました。民法は個人主義的社会原理を、忠孝は家族国家的原理を象徴する。穂積にとって、民法は日本に西洋式の個人主義を移入することによって、国家原理を根本から崩す危険性のあるものと映ったのです。
こういう批判も出たくらいに、明治民法には、西洋近代的な面があったのです。例えば、この民法は、家族における妻の不安定な地位を厚く保護することを目的の一つとしていました。労農派マルクス主義の指導的理論家であった山川 均(やまかわ ひとし)の妻で、女性解放運動家の山川菊枝は、旧民法に対し、「女性にとっても社会にとってもまことに喜ばしき進歩」「日本の女性のため、かつ国民全体のために祝福されなければなりません」と賞賛したほどででした。
そして、「わが国の離婚率は新しい戸籍法の実施された明治16年当時から、年と共に低下し、殊に明治31年民法の制定によって、妻の地位が在来よりはるかに安定し、みだりに離婚できなくなってから、急に低くなっております」と述べています。実際この間に、離婚件数は5分の1に減少したのです。こうした肯定的評価があったことを見逃すべきではありません。
日本の被占領時代、昭和22年にGHQによって民法改正が強行されました。戦後は戦勝国の占領政策によって、家という伝統的な大家族が解体され、夫婦と子供だけの「単婚家族」、いわゆる核家族が増え、都市化、若年人口の都市への流入、住宅事情等がこれに拍車をかけた。結果、夫婦とその両親、祖父母とその孫という縦のつながり、また夫婦とその兄弟姉妹・おじ・おば等という横のつながりとが、ともに弱くなったいったのです。
民法改正の焦点の一つは、親族相続編でした。これが全面改正されたのです。改正は、わが国の家族制度に重大な変革となるものでした。戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などがことごとく廃止されたのです。
中でも第一に、家督相続の廃止と均分相続の導入は、日本の家族に甚大な影響を及ぼし、それにより、親子・兄弟姉妹の遺産争いが顕在化し、家族の結びつきが利害中心のものに変じたのです。家族における個人主義が、遺産の相続問題をめぐって、家族間の対立・抗争を激化し、今日の訴訟社会へと繋がっているのです。第二に、多額の相続税が課されることにより、家族の経済的基盤が切り崩されました。かつては、親が子供に土地・財産を相続し、子供が祖先伝来の土地・財産を守り維持するところに、家族の継続がありました。また子孫の祖先への感謝と尊敬が保たれていたのです。こうした経済的基盤が崩されたことにより、親子・祖孫の結びつきは弱くされたのです。それは、同時に文化の継承のための物質的基礎を崩すものとなりました。第三に、姦淫罪の廃止は、男女の愛と信頼による結婚制度を根底から弱めるものとなった。
しかし実際は、GHQは当初、これほど過激な改正を行おうとは考えていませんでした。GHQは憲法第24条をもって明治民法の改正を命じはした。しかし、家制度を根こそぎ破壊せよ、とまで指示してはいなかったのです。民法改正における戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などの廃止は、すべて日本の民法学者らが、この機会に乗じて強行したものなのです。その学者とは、中川善之助、我妻栄、川島武宣らです。彼らはマルクス主義の影響を受けていた。この点が重要なのです。
中川善之助は、次のように述べている。「汝の夫婦関係、汝の親子関係、汝の兄弟関係を民主化せよ、そうすれば国の民主化はたちどころになるであろう」(『新憲法と家族制度』)
川島武宣は、次のように述べている。「民主主義は、個人の主体性を否定するような意味での共同体的な……家族を解体し、家族を主体的な個人と個人の関係とすることを要求する」と。(『日本社会の家族構成』)
中川は、「国の民主化」を行うために家族関係を民主化せよ、というわけだが、そもそも民主主義(デモクラシー)とは、民衆が権力に参加する政治制度のことである。国家や社会の制度ではありえても、家族の制度ではありえない。また、川島は「家族を解体し」「個人と個人の関係とする」ことを主張するが、これは個人主義の徹底です。まさに、共産主義やフェミニズムがめざしていることそのものにほかならないのです。中川や川島のいう「民主主義」とは、欧米における自由主義的なデモクラシーのことではないのである。旧ソ連が掲げていた社会主義的な意味での「民主主義」なのです。
彼らのいう「家族関係の民主化」や「家族の解体」とは、マルクス=エンゲルスの共産主義革命の戦略であり、その実行は、スターリンが日本革命のテーゼとして指令した二段階革命の道です。すなわち、共産主義革命のための第一段階としてブルジョワ民主主義革命を行う。そのために、アメリカの占領政策に便乗して、日本の民主化を行い、その戦術の一つが、家族関係の民主化だったのです。それは、共産主義革命の準備としての社会主義的民主化なのです。
中川や川島やその弟子たちの教育を受けた世代から、共産主義的フェミニズムが台頭するのは、必然の流れであり。昭和22年の民法改正は、共産主義の革命戦略に基づく、日本の社会主義化・共産化への第一歩だったのです。幸い、戦後のわが国は、共産革命の危機を乗り越えてきました。しかし、現在、急進的なフェミニズムという形を変えた共産主義が、「家族の解体」を狙っている。その攻撃から、日本の家族を守るためには、憲法に家族条項を入れ、家族の価値を称揚するとともに、民法から共産化に悪用されるような規定を除いていく必要があるのです。
現在の政府民主党の理念は、その危険性を孕んでいるのです。
弁護士、法学者でもあり、秀明大学教授を勤められ、平成20年に亡くなった佐藤欣子氏は、次のように述べています。「戦後のわが国の家族の基本原則は個人の尊厳と両性の平等だけである(憲法第24条)。しかし、それは結局のところ、エゴイズムや相手を自分の欲望充足の手段視する孤独で殺伐たる人間関係をもたらした。日本の家族は一家の中心を失い、共通の信仰や理想を失い、祖先と子孫に対する責任も日本文化の伝承の役割も放棄したのである。そしてこれは日本人の人を愛する能力を大幅に破壊した。結婚を避け、子どもを生まず高齢者を嫌悪するなどはその結果に過ぎない」と酷評されています
憲法と民法が、今日の家族の危機の根本原因となっており、そして、この憲法と民法が、家族を解体しようとする共産主義やフェミニズムの温床となっている事実を知らねばなりません。
投稿文字数に制限がありますので続きは次回に述べさせていただきます。