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済州島抗蒙記念館リンク

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抗蒙遺跡地
ケルナチ ネュク饅hanmon.jpg
 国家史跡396号で、蒙古の侵入時に祖国を守ろうと決起した三別抄(高麗武臣政権の時の特殊軍隊)が最後まで抗戦した由緒ある場所で、展示館と記念碑、土城が残っている。
 三別抄は高麗元宗11年(1270)2月、高麗朝廷が蒙古軍と講和を結ぶと、これに反対して最後まで反蒙抗戦を続けたが、全羅道珍島に根拠地を移してからそこで大敗し、済州島に渡ってきて缸坡頭城を築いた。
 2年余り蒙古軍と対決したが、元宗14年(1273) 4月に蒙古勢力により滅ぼされた。
入場料:500ウォン
 
 
 

モンゴルの高麗侵攻

モンゴルの高麗侵攻(-こうらいしんこう)とは、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対してモンゴル帝国1231年から1273年にわたり、繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。
 
 高麗の分裂と三別抄の乱
 1269年10月、林衍の乱の原因となった親モンゴルで都統領の崔坦らが、西京(平壌)を中心とする西北面50城を領して、高麗から分離し元に帰属した。クビライは西京を「東寧府」へ改称し東寧路を置いた。またその北の遼寧平原の瀋州(瀋陽)一帯は先に降伏していた洪福源らの一族が統治していた。一方、林衍一派の残党である裴仲孫は残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温を擁立して江華島を脱出、半島西南部の珍島を根拠として「高麗国」を自称した。
 
 これら高麗人が別々に構成した4つの勢力(北から順に洪福源・崔坦・元宗・珍島)をまとめて統治するため、クビライは行中書省を置き、クルムシムカリ国王家)を長官に据えた。クルムシの勧告を受けて元宗は江華島を退去し、開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権は終了した。
 
 しかし江華島からの退去に従わない武人は、高麗の首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力として反乱を起こし、珍島臨時政府に合流してモンゴルに抵抗した。クビライはヒンドゥ(忻都)に5,000の騎兵を授けて金州に駐屯させ、元宗に三別抄討伐のための軍船を造らせる一方、洪福源の子・洪茶丘(後に二度の元寇に従軍)にも兵を率いて屯田させた。
 
 1271年(この年からクビライは国号を「大元」と改める)アカイ率いる第一次珍島討伐は失敗に終わる。同年3月三別抄は日本の朝廷に対して援軍と兵糧を求めたが、日本側では事態がよく理解できておらず、この要求は無駄に終わった。
 同5月ヒンドゥ率いる元・高麗連合軍が珍島を攻略し、モンゴルとして初めて海戦に勝利して、王温を捕らえ斬刑に処した。なおも三別抄の指導者金通精らは、属国の耽羅国(済州島)へ逃れて耽羅国王を追い出し籠城したが、ヒンドゥ軍12,000の兵は1273年軍船108艘に分乗して耽羅を攻略。三別抄勢力を壊滅させた元朝は耽羅総管府を設置、高麗征服事業は完了した。
 
 
 
三別抄の乱
 朝鮮半島で936年に成立した高麗は中華諸王朝の冊封を受けていたが、北方のモンゴル系遊牧民や契丹などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。
 高麗は侵攻を撃退するものの、契丹や女真族の王朝に対しては入朝を行う。高麗では科挙制度の導入など国家体制を確立させて対抗を図るが、文臣と武臣の政治的抗争から、1196年には武官の崔忠献李義旼を暗殺し、高麗の実権を握った。
 
 崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の崔瑀(瑀は王偏に禹)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。
 これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための私兵組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍になった。
 
 モンゴルの諸民族を統一して成立したモンゴル帝国1271年クビライによって国号を大元とした)は、1219年に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に第一次高麗侵攻が開始された。
 高麗軍は各地で苦戦を強いられるが、私兵を温存していた崔氏政権は徹底抗戦を行い、1232年に開城から漢江河口の江華島への遷都を行った。モンゴルは断続的な侵攻を行い、高麗の朝廷では文臣を中心に講和へと傾き、1258年に林衍ら反対派の武臣とともに崔氏政権を打倒し、モンゴルに降伏した。
 
 林衍らは降伏を不服とし、1269年に国王元宗を廃して再び政権を掌握した。モンゴルは林衍討伐を名目に進軍し、林衍は三別抄らを動員して抵抗するが、その最中に死去した。1270年5月に子の林惟茂も倒され、武臣政権は崩壊した。元宗は江華島から開城へ戻り、武臣政権の私兵集団である三別抄に対しては解散を命じた。
 しかし1270年5月、三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し、江華島を本拠に自立した。三別抄の挙兵理由に関しては、もともと反モンゴル的性格であったことと、将兵の討伐を恐れたためと考えられている。また、独自に官吏の任命も行っており、高麗王朝を否定した新王朝樹立を目指すものであったとも言われる。
 
 6月、三別抄政権は西南の珍島に移った。1271年には日本の鎌倉幕府へ救援を求めたが、朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺されている。また、2月に蒙古から降服を求められたときには、「軍を引き上げてください。そうすれば服従いたします。蒙古の将軍忻都が願いを聞いてくれません。私たちに全羅道をくだされば、蒙古朝廷に直接したがいます。」 と返書をしたが、蒙古は高麗に反乱を起こした忠誠の疑わしい三別抄よりも忠誠の篤い高麗による朝鮮の間接統治を望んだために、降服条件が折り合わなかった。
 その後、珍島の三別抄は高麗の金方慶洪茶丘らモンゴルの連合軍に撃破され、金通精に率いられて耽羅(済州島)に落延びるが、1273年に耽羅島も攻め落とされ三別抄の乱は鎮圧された。 モンゴルは耽羅総管府を設置して、高麗の征服事業は完了した。
 
 
 
 
 
「三別抄の抗蒙記念」造形物の建立(1)
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珍島郡は護国の三別抄抗戦を記念する造形物を
9月に建立すると発表した。

場所は三別抄が根拠地とした龍蔵山城の宮殿跡前で・・・
総工事費は9億5千万ウオン、
造形物は5月末に工事を始め、
4ヶ月後の9月に完工する予定である。

東北アジアを越え世界を支配していた
蒙古軍に対抗した
高麗時代の三別抄軍の
自主国防精神を賛え
蒙古の抗争で戦死した
三別抄軍や民衆の魂を慰労し
これを記念するための造形物である。
 
 
 
 
 
 
  「항몽유적지(抗蒙遺跡址)」 へと向かう。ここは約700年前、モンゴルの侵略軍に対抗し国を守るために決起した高麗最後の抗蒙勢力 「삼별초(三別抄)」 が、最後まで抗争し壮烈な戦死を遂げた遺跡址だ。

三別抄は高麗の朝廷が蒙古軍と講和するとこれに反対し、モンゴルの侵略軍を退けようと独自に抗蒙活動を続けた。三別抄は新しい政府をたて、江華島から珍島へと根拠地を移しながら抗争したが、珍島も高麗・蒙連合軍の攻撃で陥落。

その後、김통정(金通精)将軍旗下の三別抄軍は、済州島に渡って항파두성(缸坡頭城)を築いた。高麗・蒙連合軍と戦った最後の抗争地である。

三別抄軍が築いた缸坡頭城は15里(1里は約393m)にわたる土城と、その内側には二重の城郭が築かれた。城内には宮閥や官衛施設まで整った要塞であったが、今では土城だけが残っているそうだ。

抗蒙遺跡址には7:25に到着。開館は9時なのでまだ入場券売り場は閉まっているが、敷地内には自由に入れるようだ(敷地内にある展示館は閉まっているので入れない)。門には 「순의문(殉義門)」 の文字(▼)が。



門の目の前には立派な木が植えられている(▼)。



そばに案内板が立っているので近寄ってみると、案内板の内容はこの木についてではなく、そばの地面に置かれた10個の石についてだった(▼)。石にはそれぞれ丸い穴が開けられている。



石の名前は 「돌쩌귀(戸の肘金と肘壺)」。これら10個の石はその昔、三別抄の金通精将軍が缸坡頭城を築き東西南北の四大門を建てたとき、その肘金と肘壺 (*) として使われたものとして知られている。

ところが当時の城門の規模がはっきりしておらず、この石が果たしてその時の肘金と肘壺なのかは明らかではない。しかしながら、これらが建築物に利用されたのは確実なので、缸坡頭城に伴う遺跡物の一つとして保存されているそうだ。缸坡頭城の遺跡地を整備するにあたり、周辺に散らばっていた石10個を集め、ここで保存しているのだそう。

(*) 肘金(ひじがね)とは戸の開閉に用いる金具。肘形に曲げて作って開き戸の枠に取り付け、柱にある肘壺(ひじつぼ)にさし込んで蝶番のような役をするもの。

門をくぐるとまっすぐ通路が伸び、左右にはたくさんの木々が植えられている。緑が多い。



通路の突き当たりには 「殉義碑」 がある(▼)。敷地内にはこの抗蒙遺跡址に関する説明が、韓国語や日本語・英語などで放送されている。
http://dilbelau.hamazo.tv/e2758076.html
 
 
 
 
 
 
済州島『抗蒙遺跡址』
 モンゴルに立ち向かう高麗時代の特殊部隊が最後まで抗戦し、殉職したという歴史的な最後の砦。
長い石畳が印象的でした。
 
 
 
 
 4世紀頃には、百済朝貢していた。新羅朝鮮半島統一後は、主に新羅に朝貢するようになったが、日本へも朝貢を行い、日本からも使節が派遣されるなど独自の外交を行った(遣耽羅使)。耽羅国の言語は朝鮮民族とは言語系統が異なるものであったとするのが通説である。
 高麗時代の1105年に耽羅州として直轄領として組み込まれ、1214年から済州と呼ばれるようになるが、在地支配層は依然健在で、高い独立性を維持し続けた。に対して抵抗した三別抄の残党は、済州島を最後の拠点として立てこもった。反乱は元・高麗軍によって平定され、済州島は元の直轄地に組み込まれた。元が済州に牧場を設けたため、以後の済州は馬産地になり、また元からの移住者およびその子孫は牧子と呼ばれた。
 
 朝鮮王朝の時代には朝鮮八道の1つ、全羅道に組み込まれ、在地勢力は次第に力を失っていった。朝鮮時代には江華島と並ぶ流刑地の一つでもあり、主に政争で負けた王族や両班が流刑にされている。15世紀の済州には船に居住して海産物を採る海民がいて、本土の海岸まで出ていくものがあり、一部は海賊化した[2]19世紀の後期には日本漁船の島の周辺海域への進出とそれに伴う漁民間の衝突が日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)。
 1910年の韓国併合で日本の領土となり、1945年まで朝鮮総督府によって統治されていた。  
1948年4月3日には済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が韓国軍などによって虐殺された。それから逃れるために日本に渡って来た在日韓国・朝鮮人も多い。
 

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