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原水爆禁止日本協議会

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原水爆禁止日本協議会

原水爆禁止日本協議会は、1955年に結成された日本反核平和団体の全国組織。略称原水協。都道府県を始め地域・労働組合内などを単位に下部組織を持ち、正式名称は「原水爆禁止○○協議会」、通称を「○○原水協」としている。
 
 
 
平和と労働センター・全労連会館
 
 
 
 
概説
 年1回、広島市長崎市原子爆弾投下のあった8月に「原水爆禁止世界大会」を開催するほか、各地で「核兵器廃絶」を掲げた運動を展開する。元々は、広範な運動体であったが、方針の違いなどにより、自由民主党系、民社党系、日本社会党系が、離脱・脱退したり、別団体を作った。

歴史

 前史から結成まで[編集]
第1回原水爆禁止世界大会(1955年8月6日)
 
 1954年3月1日ビキニ環礁で行われたアメリカ合衆国による水爆実験(Castle作戦のBravo実験)で第五福竜丸ら日本の遠洋漁船が多数被爆被曝)し、全国的な問題となった。国民的運動の盛り上がりのもと、核兵器廃絶を求める署名運動が行われ、翌年8月、「第一回原水爆禁止世界大会」が開催される。
 その後、この署名運動の実行委員会が名前を変更し「原水爆禁止日本協議会」(初代理事長は安井郁法政大学教授)となった。
 その後「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」や原発問題への対応の相違が原因となって自民党系及び民社党系勢力が脱退した(民社党系は核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成 自民党系の団体はなし)。

見解相違による対立から分裂へ

 1961年、原水禁7回大会は、「最初に実験を開始する政府は平和の敵、人道の敵」と決議したが、その直後の8月30日にソビエト連邦が核実験を再開した。これに対する対応をめぐって原水協は、ソ連政府にも抗議せよとする日本社会党・総評系と、抗議に反対する日本共産党とが対立した。
 
 翌1962年、8回大会の最中にソ連は再度の核実験を行い、再び昨年と同じ衝突が起り、結局大会は混乱したままに終わった。日本共産党系代表は「核戦争の根源であるアメリカ帝国主義を日本やアジアから追い出せ」と、反安保・基地闘争も視野に入れた主張をした。
 1963年に、日本社会党・総評系グループが「いかなる国の核実験にも反対」[1]のスローガンを旗印にして部分的核実験禁止条約の支持を要求した。当時、ソ連は中国の関係が悪化しており、核開発で先行していたソ連は中国の核保有を妨げたいとの思惑から、同条約の締結を推進した。これに対して日本共産党系は「地下核実験を条約によって認めることになる」として当条約に反対し、同時に「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」と主張した[2]。当時日本共産党は中国共産党との関係を深めていたので、中国に配慮して同条約に反対したと言われる。
 
 このため内部対立が起き、1963年の大会は流会。共産党は、意見の違いにかかわらず「核廃絶・核戦争阻止・被爆者救援」の三点で統一するべきだと主張したが、結局、社会党系グループは脱退して、1965年2月に原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成した。
 ただしその後、日本共産党が中ソ共産党に批判的になり、核兵器全面禁止に主張を変化させていく一方、逆に、原水禁は、日本社会党が親ソ・親中・親北朝鮮の傾向を強めたため、その影響によって、ソ連や中国の核に対し柔軟になっていく。
 
 運動開始当初、原水爆禁止運動は超党派で形成され、マスコミ各社もこぞって支援する「国民的運動」だった。しかし党派間のむき出しの争いを嫌い去っていく人が多く、結局のところ政治党派による系列団体化という結果に終わったという見方もある。

原水協事件

 
 1977年からしばらくの間、原水禁との統一大会が開催されたが、原水禁側が、統一に反対して「核凍結」(当時の用法としては、既存の核兵器を存続させることだった)政策への支持を要求する原水禁側との対立が起きた。
 今ひとつの事情として、共闘によって原水禁に主導権を握られることを恐れる、共産党の宮本顕治議長の圧力があった。共産党としては、原水禁を解散し、分裂の非を詫びて原水協へ復帰するという形でなければ許さないという立場だったのである。
 
 共産党で原水協との窓口を担当した金子満広統一戦線部長は、宮本の意向を受け、党中央の許可を得なかったことを理由に、共闘の破棄を命じた。しかし、原水協側は従わず、金子は1980年に更迭された。後任の統一戦線部長となった上田耕一郎は「限定的持続共闘論」を掲げ、共闘の維持を模索したが、1984年更迭され、再び金子が後任となった。
 共産党は『赤旗』1984年4月4日号・4月5日号「統一の路線と分裂の路線――原水爆禁止運動三〇年の経験と教訓」で総評・原水禁の反共[3]右転落右傾化)を批判し、共闘への批判を強めた。その上で分裂の責任は原水禁にあると改めて批判したことから、原水禁・総評側の反発を受けた。
 
 並行して、総評と、反主流派の統一労組懇(全労連の前身)の対立が、再分裂の決定的な引き金になった。1983年平和行進で共産党系団体が、統一労組懇旗を掲げたことに総評側が反発。旗は自由とする共産党・原水協・平和委員会・統一労組懇側と、準備委員会に直接参加した団体の旗に限るとする総評・原水禁側の対立に発展した。
 1984年の平和行進では、市民団体の仲裁で、吉田嘉清原水協代表理事、森賢一平和委員会事務局長(両名とも共産党員)は統一労組懇旗の自粛を受け入れた。しかし、共産党側はこれを「日和見主義」と批判した。6月1日、森に迫って事務局長職の辞意表明をさせ、6月9日、森の辞任に反対した小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長ともども解任した。さらに、森が「森一人だけに通告した党中央秘密指令」を長谷川や吉田に漏らしたのは「党内問題を党外にもちだした[4]」として、査問に掛けた末除籍した。
 
 さらに、共産党は吉田にも辞任を迫り、拒否されると辞任に反対する原水協の代表委員6人を解任、さらに代表委員制自体を廃止し、6月29日理事会開催を強行。吉田を解任し、金子毅を後任に据えた。この年の原水爆禁止世界大会8月1日から開催されたが、それに先立つ各組織合同の運営委員会では、解任された吉田、草野信男の出席を認めるかどうかで紛糾した[5]
 8月9日、共産党系の日中出版が、吉田に内幕を取材した『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』(ISBN 978-4817511249)を上梓すると、柳瀬宣久社長と社員3名、そして吉田を反党行為を理由に除名した。また、吉田を擁護した古在由重も除籍となった。こうして、日本共産党の意に反する原水協幹部は、ことごとく追放された。
 
1985年の統一大会に向けた話し合いでは、実行委員会の委員選出を「十一団体で一致できる団体、個人」を主張する原水協・平和委員会側と、「十一団体が推薦する団体、個人」を主張する原水禁・総評側で平行線をたどった。吉田らの参加を認めるかどうかが、再び問題となったのである。この年の統一大会は開催されたが、1986年にはついに話し合いはまとまらず、再び分裂。原水禁・総評側は元々共闘に乗り気ではなく、しかし統一を望む世論の意向を受け協議に応じている状況だったので、共闘は立ち消えになった。原水協・共産党側は、核兵器廃絶を緊急課題としなかった原水禁・総評側の責任としている。
その後も、再共闘が模索されてはいるが、現状、暗礁に乗り上げている。
 
 
 
 

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