インドの歴史
インダス文明・ガンジス文明
紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevanが紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラが支持し、研究は振り出しに戻っている。
パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった。
この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール・バナス文化(Ahar-Banas culture)、マールワー文化(Malava Kingdom, Malwa culture)、ジョールウェー文化(Jorwe culture)などがその例として挙げられる。これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となったギリシャ・サントリーニ島のミノア噴火)などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原形になったと考えられている。
前期ヴェーダ時代
リグ・ヴェーダによれば、紀元前12世紀頃(前1200年のカタストロフ)にアレイヴァ(現ヘラートを中心とするアフガニスタンの古称)のバラタ族・トリツ族(ともにインド・アーリア人の一部族。アーリアはアレイヴァのラテン語表記でアフガニスタンの意)がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に進出し、先住民を征服し、移住した(十王戦争)。バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。
部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる。
バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。
『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。
後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国
十六大国[編集]詳細は「十六大国」を参照
紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦いでパンチャーラ国に敗北して衰退していった。
こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝に支配されるようになり、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。
ウパニシャッド哲学と新宗教
こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始され当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。
ペルシャとギリシャの征服
古代インドの諸王朝
マウリヤ朝マガダ国のインド統一 マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、ナンダ朝マガダ国をチャンドラグプタが打倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立した。王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。
紀元前3世紀のアショーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期を迎えた。南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。
クシャーナ朝
マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
サータヴァーハナ朝と古代交易網
詳細は「サータヴァーハナ朝」を参照
2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。
大乗仏教のおこり
詳細は「大乗仏教」を参照
西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。
二大叙事詩と『マヌ法典』
この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。
ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。