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シルクロード

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シルクロード

シルクロード主要ルートの地図
西暦1世紀頃のアジアの交易ルートと拠点 (一部取引拠点含まず)
 
 
 シルクロード: Silk Road)は、日本地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹の道とも呼ばれる。現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。
 
海のシルクロード 
 シルクロードという語は中国と関わる貿易路の代名詞のようにもなっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジアインド洋を経てインドアラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶこともある。
 すでにプトレマイオス朝の時代からエジプト紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアリカメドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されている。
 古代にはマラッカ海峡は、(水深が浅く、岩礁が多く座礁しやすいため)あまり使われず、マレー半島クラ地峡を横断するルートが多かった。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはなかった。
 
 7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退したが、代になると再び中国各地に進出し、代まで続いた。
 は海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めず、16世紀には喜望峰経由でポルトガルが進出したため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。
 
 
シルクロードと日本 
 日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製やペルシア製の宝物、天平時代遣唐使に随行してペルシア人が日本に来朝したことに関する記録などがある。当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津国住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。
 
 日本では学校教育でシルクロードを取り上げてはいたが、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHK1980年に放映した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって一躍シルクロードの名は有名になった。
 日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されている。中央アジア(敦煌〜サマルカンド)といえばシルクロード、という連想は根強い。
 
 なお、日本国内においても、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が「絹の道」や「シルクロード」と呼ばれることもある。
 

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