24面の鏡や神事残す
昔、朝鮮半島の古代国家・百済から王族が日本に亡命、日向の国に漂着したとする伝説がある。南郷村・神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の天平勝宝8(756)年ごろのことという。
王族の一行は2そうの船に乗って瀬戸内海に入り、安芸の国(広島)の宮島に着いたが、追っ手を恐れて筑紫(福岡)に向かった。船はあらしに遭って流され、1そうは日向の金ケ浜、1そうは高鍋の蚊口浜に漂着。金ケ浜が禎嘉王一行、蚊口浜がその子・福留王の一行であった。
禎嘉王らは、すぐに向かうべき土地を占ったところ、西方7、8里によい土地があると出たので、そこへ向かった。着いたところが神門であったという。一方、福智王らも占った。西方に比木(木城町)という土地があることが分かり、そこに落ち着いた。
禎嘉王らが西に向かう途中、お産をする女性がおり、子どもを生んだ土地を「おろし児」、その子を洗ったところを「児洗い」と呼ぶようになった。また途中乳母が亡くなったところが、「乳母が森」であるという。
やがて本国から追っ手が入り、禎嘉王らのいる神門に迫って来た。南郷村の入り口に近い伊佐賀の戦いは最も激しく、王の次子・華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢に当たって亡くなった。比木にいた福智王も急を知って小丸川に沿って渡川から鬼神野を経て神門に入り、父王を助けて戦った。
苦戦したが、土地の豪族「どん太郎」が食料や援軍を出してくれ、ようやく追っ手を撃退することができた。今でも伊佐賀の土が赤いのは、戦死傷者の血が染みついたからだという。禎嘉王を葬ったところを「塚の原」と言い、古墳がある。この王をまつったのが神門神社である。福智王も比木の人々に崇敬され、後に比木神社にまつられた。神門神社と比木神社は密接な神事も伝承している。
神門神社には、王族の遺品とされる古い鏡24面がある。その中には奈良の正倉院の御物と同一のもの、東大寺の大仏台座下出土鏡と同形のものなどがあって、王族伝説を単なる空説として無視できないことを示しているように思われる。
王族亡命を歴史の事実と照合するのは困難であるが、類似の伝説が田野の天建神社にもある。こちらでは、百済王の船は油津に着いたと伝えている。
昔、朝鮮半島の古代国家・百済から王族が日本に亡命、日向の国に漂着したとする伝説がある。南郷村・神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の天平勝宝8(756)年ごろのことという。
王族の一行は2そうの船に乗って瀬戸内海に入り、安芸の国(広島)の宮島に着いたが、追っ手を恐れて筑紫(福岡)に向かった。船はあらしに遭って流され、1そうは日向の金ケ浜、1そうは高鍋の蚊口浜に漂着。金ケ浜が禎嘉王一行、蚊口浜がその子・福留王の一行であった。
禎嘉王らは、すぐに向かうべき土地を占ったところ、西方7、8里によい土地があると出たので、そこへ向かった。着いたところが神門であったという。一方、福智王らも占った。西方に比木(木城町)という土地があることが分かり、そこに落ち着いた。
禎嘉王らが西に向かう途中、お産をする女性がおり、子どもを生んだ土地を「おろし児」、その子を洗ったところを「児洗い」と呼ぶようになった。また途中乳母が亡くなったところが、「乳母が森」であるという。
やがて本国から追っ手が入り、禎嘉王らのいる神門に迫って来た。南郷村の入り口に近い伊佐賀の戦いは最も激しく、王の次子・華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢に当たって亡くなった。比木にいた福智王も急を知って小丸川に沿って渡川から鬼神野を経て神門に入り、父王を助けて戦った。
苦戦したが、土地の豪族「どん太郎」が食料や援軍を出してくれ、ようやく追っ手を撃退することができた。今でも伊佐賀の土が赤いのは、戦死傷者の血が染みついたからだという。禎嘉王を葬ったところを「塚の原」と言い、古墳がある。この王をまつったのが神門神社である。福智王も比木の人々に崇敬され、後に比木神社にまつられた。神門神社と比木神社は密接な神事も伝承している。
神門神社には、王族の遺品とされる古い鏡24面がある。その中には奈良の正倉院の御物と同一のもの、東大寺の大仏台座下出土鏡と同形のものなどがあって、王族伝説を単なる空説として無視できないことを示しているように思われる。
王族亡命を歴史の事実と照合するのは困難であるが、類似の伝説が田野の天建神社にもある。こちらでは、百済王の船は油津に着いたと伝えている。
東臼杵地方 | 第2話 | 朝鮮王の漂着 | |
奈良朝時代、孝謙天皇の勝宝八年、百済の国に内乱が起こった。国王禎嘉王の身近にも危険が迫ったので、王は王子の福智王、華智王とともに、多くの侍臣を従えて、日本へ逃れて来た。はじめ安芸の厳島へ上陸したが、島は身を隠すのには狭く、安住の地とも思われない。 一行は再び舟に乗って、海路を南にとった。 ちょうど九月、台風の季節のことで、外海に出ると間もなく、舟は暴風雨に遇い、舵力を失った。漂流を続けたが、間もなく禎嘉王の舟は日向のお金ヶ浜(日向市)に、福智王の舟は蚊口浦(児湯郡高鍋町)に、それぞれたどり着くことができた。九死に一生を得たわけであるが、禎嘉王の乗っていた舟は沿岸で沈没した。 今、石舟という地名が残っているのが、その場所であると言われている。 禎嘉王と、福智王と、それぞれの一行は、日向路で合流することができた。里人たちの案内をつけて毛比呂毛と呼ばれる里で衣冠束帯を乾かした後、さらに山道をたどって禎嘉王は南郷村神門(東臼杵郡)に、福智王は木城村比木(現在の児湯郡木城町)に、それぞれ仮の宮居を定めた。 これらの土地での平和な生活も、しかし、長くは続かなかった。国王たちが日向の国に潜んでいるという噂は、三年目に百済の賊徒に伝わった。百済本国からの追討軍は、肥前唐津に上陸すると、陸づたいに日向に、攻め入って来たのである。 禎嘉王は坪谷の伊佐賀坂に陣を張って、敵を向かえ撃った。しかし形勢利なく、第二王子華智王は戦死を遂げ、兵の大半を失ってしまった。やむなく王は名貫の里まで退却し、そこで寄せ来る敵軍を前に、野に火を放った。向かい風に火を受けたのであるからたまらない。敵は火勢に悩まされて後退したが、一方の奮戦中の王も流れ矢に当たって傷ついた。再び王の陣地は危うくなってきたのである。 ちょうどそのとき、福智王は本国から連れて来た手兵と、石河内、中股、雉野、渡川などで集めた土民兵との混成軍を率いて父王を助けに来た。援軍を得て、味方の志気は大いに上がり、さしもの敵軍も退却した。 しかし福智王の軍勢も、そのうち敵軍に囲まれてしまった。糧食が欠乏してきた。戦況は日に日に不利になってゆく。このとき禎嘉王の臣に見という者があり、山中に入って猟を行い、多くの鹿を射とめてきた。飢餓の難が救われた。これに勢いを得て味方は再び逆襲に出た。ついに敵軍を打ち破って、勝利を治めることができたのである。 禎嘉王は戦闘中の矢傷がもとで死んだ。土民は遺骸を塚原に葬って、祠(ほこら)を建てた。いまは神門神社といわれるのがそれである。のち王の妃、之伎野は大歳神社に、華智王は伊佐賀神社にそれぞれ祭られた。 兵乱が終わった後、福智王は永くこの地を治めた。里人の尊敬を集め、死後は比木神社に祭られた。比木大明神というのがそれである。 神門、比木、大歳の三社は、主神が一族であるために、その神事は昔から特殊な結びつきをもって行われる。大祭の儀式として、比木から神門まで、数里の山道を越えての神幸がある。四日経って、還幸する習慣であるが、これなどはその著しい例である。 禎嘉王が野火を放って奮戦した最後の土地、名貫では今でも野焼きの行事が行われる。どんなに強い風が吹いても、火は原の一部を焼くだけで燃え広がることがない。ひとりでに消えてゆく。王の霊力によるものであるといわれている。 |
大阪へ来たが
山奥に逃げました
『神門神社縁起』では、百済王族は百済から来たことになっていますが、八世紀半ばという時期は、奈良時代の真っ只中で律令国家が出来上がった頃で、権力争いが多かった時期でした。権力争いに関与した亡命百済王族の何某かが政争に敗れ、あるいは政争から難を逃れるために日向へ落ち延びたのではないか。