薩英戦争
Illustrated London News 1863年11月3日号のイラスト | |
戦争:薩英戦争(アングロ=サツマ戦争) | |
年月日:1863年8月15日-1863年8月17日 | |
場所:鹿児島県 | |
結果:勝敗については諸説あり。 | |
イギリス | 薩摩藩 |
ヴィクトリア女王 パーマストン子爵 ラッセル伯爵 オーガスタス・レオポルド・キューパー | 島津茂久 島津久光 |
イギリス海軍 | 薩摩藩 |
艦船大破1隻、中破2隻、イギリス軍の死者11人、負傷者52人 | 薩摩藩の死者5人、家屋500戸焼失等物的損害 |
薩英戦争(さつえいせんそう、英語: Anglo-Satsuma War,Bombardment of Kagoshima,、文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日))は、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。
鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。
生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件発生。横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷(死亡1名負傷2名)。
生麦事件
生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
事件の勃発
文久2年(1862年)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志し、率兵上京軍700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち、幕府人事への介入といった目的が不首尾に終わり(文久の改革も参照)、勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった。
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、どんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかった。
交渉
交渉までの経緯については、備考を参照のこと。
6月22日(8月6日)、ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス(艦長J・ジョスリング一等海佐)、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス一等海佐)、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉)、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉)、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉)、同「ハボック」(艦長G・プール海尉)、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー中将)と共に横浜を出港。6月27日(8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。
6月28日(8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への賠償金2万5000ポンドを要求。薩摩藩側は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。
薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。なお、薩摩藩は処罰の対象を、犯人ではなく藩主だと勘違いしたため拒否したという説がある(要求文翻訳を担当した福澤諭吉が急いでいたために、原文を直訳してしまい事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)。
戦闘
7月2日(8月15日) - 夜明け前、イギリス艦隊は、五代友厚や寺島宗則らが乗船する薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において拿捕する。これを宣戦布告と受け取った薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台(台場)の80門を用いて先制攻撃を開始。
イギリス艦隊は、100門の砲(うち21門が最新式のアームストロング砲)を使用して陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に対し艦砲射撃で反撃した。キューパー中将は拿捕した白鳳丸、天佑丸、青鷹丸を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を持ち出してから3艦を焼却した。
薩摩藩の陸上砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人)に及んだ。旗艦ユーライアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなくアームストロング砲の暴発事故によるものもあったが、イギリス海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている。
なお、当時の事件を伝える新聞では負傷者の詳細が掲載されているが、暴発事故には一切触れられていない。この暴発事故で不発が多い事が実戦で判明したためアームストロング砲はイギリス海軍から全ての注文をキャンセルされ、輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる。
一方薩摩藩側は人的損害は非戦闘員の死者5~8人、負傷者18人程であったが、物的損害は甚大であった(鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失)。
午後5時過ぎ、イギリス艦隊は砲撃をやめ、桜島横山村・小池村沖に戻って停泊した。7月3日(8月16日)、 正午、イギリス艦隊は、城下や台場に砲撃を加えながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。7月4日(8月17日)16時、イギリス艦隊は、弾薬や石炭燃料の消耗や旗艦艦長・副長の戦死などの被害を受け、戦死者を錦江湾で水葬し、薩摩を撤退して横浜に向かう。
戦闘の結果
朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて薩摩藩に褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
戦争の処理
10月5日(11月15日) - 幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩の重野安繹らが横浜のイギリス大使館で講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。しかし、この借用金は幕府に返されることはなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
イギリスは、薩英戦争後の交渉を通じて薩摩藩側を高く評価するようになり、薩摩藩との関わりを強めていくこととなる(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築いていく。)薩摩藩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解させられることとなり、イギリスとの友好関係を深めていくこととなった。
備考
生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相(後の首相)は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。
当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。
だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日(3月22日)、幕府に薩英戦争の賠償問題について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。
江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールに英国と仲介を依頼し、文久3年5月9日(6月24日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは、日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である薩摩藩との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。
ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。