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[転載]倭・倭人関連の中国文献

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倭・倭人関連の中国文献
 
概要
倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。
『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。
この当時、中国では倭について、このような二つの理解があったことを示している。
 

 『論衡』
 本文
倭人について、
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
 
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
 
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とみえる。
 
 書や記事について [編集]中国の歴史時代は、商の後期に始まり、周、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。
 
 周代は、ほぼ日本の弥生時代初期から前期にあたり、この当時から中国では日本列島の住人を倭人と認識していたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。
 
 撰者について [編集]王充(おうじゅう 27年 - 97年)の書。王充は、会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。王充は次項『漢書』の著者・班固より5歳年長の先輩で、知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。いずれにせよ、王充の時代には倭人は古く周代から大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って周に朝貢していたと考えられていた事が分かる。
 
抄訳は平凡社東洋文庫、中国古典新書:明徳出版社、新書漢文大系:明治書院がある。
全訳は(原文・読み下し)山田勝美訳注で新釈漢文大系:明治書院に上中下巻である。
 
 『山海経』
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
山海経の編纂された時代には、倭は燕に朝貢していたと考えられていた事がわかる。
しかし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっていて「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。
『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」
女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。
(よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、邪馬台国と黒歯国は異なる国という認識である)
『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
 
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」
南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。
(よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、倭国と黒歯国は異なる国という認識である)
百越人(特に春秋時代の「呉」人)と倭人の後の関係を暗示する『山海経』関連古文書
(『山海経』の記述の影響によって、古代中国では「倭」(九州)が「太陽が昇り扶桑の生える」「九夷」として憧れの地になっていた蓋然性もあることを示す関係古文書)
 
『宋書』の楽志に、「白紵舞歌」というものがある。
その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」
(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。原文の「崑崙」は山へん付である。)
という下りがあって、この「(白)紵」というのは「呉」(春秋時代)に産する織物であったことに加えて、最近、遺伝子分析技術の発達(DNA分析など、一種の分子単位次元の形質人類学)によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた。
『日本書紀』の「国生み」での「筑紫」の国名の命名では、そういった当時の背景の影響を受けたことは明らかである。そういった影響を受けたものとして「漢委奴国王印」が発掘された志賀島一帯(「香椎、カシ」は百越人地帯としての「越(コシ)」の訛り)は、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たち(入れ墨の文化があった。)が海路、亡命して漂着した所であることが、上記脚注のように、最近の発掘調査やDNA分析技術の発達で明らかになってきた。(安曇族)

『論語』子罕第九に「欲居九夷」
「孔子、(その天性が柔順な)九夷に居すを欲す。」とあること。
『論語』公治長第五に
「子曰く、道行われず。海に浮かぶべし(子曰、道不行、乗桴浮于海)」(孔子が言った。中国では道徳が受け入れられないから、東の海にある九夷にいきたい)とあること。
 

『前漢書地理志』に「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行はれざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云ふ。」 とあること。
 

『隋書』東夷傳の倭の条に「・・・九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順・・・」
「倭は・・・九夷の居るところ。・・・その天性は柔順」とあること。
 
 『漢書』 [編集] 本文 [編集]『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
 書や記事について [編集]楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。
 撰者について [編集]班固が後漢の初め頃に編纂した。
 

 『後漢書』
 本文
『後漢書』「東夷傳」
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
 
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。
しかしながら、そのような日本の読み方の如何に関係なく、かの漢字文化の本家では、どのように解釈していたか、と言えば。
 
 
『北史』 倭国伝
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という
 
『隋書』 倭国伝
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
安帝の時(106-125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
 
『旧唐書』倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。
(倭国とは、古の「倭奴国」なり)
と、「倭奴国」という国名の固有名詞として、後の「倭国」の呼称の意、としていた。
中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」
会稽の海外に東鯷(てい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する
という。
会稽郡、今の蘇州・上海あたりの海の彼方に、東ていの人 がいて、二十余国に分かれて、倭人と同様に朝献していたという記事から、この”東ていの人”が中国から日本を指していると解釈すれば、前漢時代にすでに会稽と関係ある倭があったことになる。
 
 
 檀石槐伝 [編集]『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」
詳細は「檀石槐」を参照
 
 書や記事について [編集]『三国志』より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。
 撰者について
范曄(はんよう 398-445)の撰。後述の魏志より遥か2世紀近くも後に編纂されたことに注意。
『後漢書』東夷伝倭人伝
『後漢書』東夷傳

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興


[転載]隋唐帝国と五代十国・宋

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隋唐帝国
 現在でも使用される世界最大の大運河隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。
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 隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。626年に即位した太宗は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。
 
 当時世界最大の都市だった長安のシンボルタワー・大雁塔太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年皇帝に即位した。前にも後にも中国にはこれのほかに女帝はいない。
 712年に即位した玄宗は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを節度使という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。
 755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。
 
 この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどから各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。
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 五代十国・宋
 
 唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の976年である。
 趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとった。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。
 また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清時代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
 
 杭州唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。
 なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏・女真族の金は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
 
 1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。
 当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。
 
 文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興

[転載]周滅亡する

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十八史略を読む-81 戦国の七雄-7 秦 その11 周滅亡する
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

昭襄王は范雎の遠交近攻の策を用いて、毎年のように韓、魏、趙に武力行使し、首を取ること数万に達した。

周の赧王は、脅威を覚えて、諸侯と合従を約し、秦を討とうとした。

そこで秦は周を攻めた。

周は支えきれず、赧王は秦におもむいて、頓首し罪を詫びた。そして、周の36邑をことごとく秦に献上した。

かくして周は滅びた。

転載元: 趣味の玉手箱にようこそ

[転載]『周易』について

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『周易について』

先日、『周易』の六十四卦爻辞の解釈の書直しが終わりまして、キズは少なくなったと思います。『周易』への理解もいっそう深くなり、ここで三つの部分(『周易』の生立ち、『周易』の読み方、『周易』(易経)の使い方)にまとめて言いたいと思います。


『周易』の生立ち:

人は不幸苦境に陥ったら、その運命の出口それとも曲がり角を探り始める。

-1076年に、周の文王(名は姫昌)が殷の紂王にユウ里(ユウ=羊+久)に拘束された。-1070年釈放までの七年間(足かけ算)に退屈を紛らすために、『易』を演算して、断片的な文字を卦爻の行間に綴り書いた。これは『周易』の最初である。
『繋辞下』に云う、「易の興や、それ殷の末世、周の盛徳に当るか、文王と紂との事に当るか。」
司馬遷も任安への手紙に「文王拘して周易を演す」と言った。

十数年後のー1058年、周の武王(名は姫発、姫昌の子)が紂王をほろぼして、周という王朝時代を開いた。その国祚が810年に長く流れて、-249年秦国の強兵に終焉してしまった。

-213年、天下を統一した八年後の秦政府が「挟書律」を施行して、民間の医薬・卜筮・農業の書以外の書物を所蔵することを禁じ、いわゆる「焚書」を行った。

歴史は過ぎたものを記録するがごとく、『周易』は周王朝滅亡(とくにー221年秦統一)のあとから、焚書までのあいだに成立したと思われる。

あの最後の編集者は、文王からの無数の書き手を経た六十四卦の卦爻辞をもう一度整理して、また焼かれる災厄を避けるために、曖昧的言葉をつかって、ほぼ現存の様子をなした。おそらく、あの時点にも、『周易』はすでに解らない書物であったかもしれない。

『周易』の上下経の両部分が西周と東周二つの大きな時代区切りを示し、{離}{咸}{既済}{未済}などを以て重要な歴史折節を画したので、周代の歩みが薄くても見える。
上経30卦*10年/卦=300年
下経34卦*15年/卦=510年
300+510=810年

-212年、秦の思想統御がもっと厳しくなり、数百人の儒者(学者)を埋め殺した。(坑儒)

-206年、楚の覇王項羽が咸陽に入り、宮殿全焼、秦政府に所蔵した書籍も全滅。

この一連の圧政・兵火のなかに、『周易』を解った学者および『周易』の原意が徹底的に灰に帰した。-191年、漢の恵帝が「挟書律」を解禁したが、もう死んでしまった『周易』の原意はよみがえることができなかった。

時間が続いて二千二百年以上に経って、歴代の学者たちはさまざまな努力をしたが、『周易』原意の還元作業はやはり結果がなかった。

謎の文字ははたして解読できるか?読める方法はほんとうにあるか?



『周易』の読み方:

解らない文字を読むのは、辞書が欠くべからざるものである。
『周易』と同時代の『尚書』、『詩経』、『春秋』三伝(公羊伝、穀梁伝、左伝)、『三礼』(周礼、儀礼、礼記)、諸子の本、さらに『史記』『竹書紀年』などの歴史書は、みな『周易』の辞書また百科全書である。『周易』自身も所々にみずから注脚をして、「経を以て経を解す」ことである。ある角度から見れば、『周易』が解らないのは、読書の量が足りないと言えよう。

しかし、人生短い、汗牛充棟で『周易』の難しさに劣らない書物をぜんぶ読み上げる時間は無い。どちらが有用、どちらが無用、選択は知識知恵の水準にたよるといえども、たまに運命的な出会いも必要とする。
神様が人間の手を借りてものを作ろうとすれば、必ずある方法でこの人を鍛錬して、適当なときに助けをしたり、進路を悟らせたりするのだ。「天」がおられずんば、人間はなにもできず。

『周易』は本文(卦爻辞)のほか、十翼(彖伝上下、象伝上下、繋辞上下、文言伝、説卦伝、序卦伝、雑卦伝)との『周易』をたすけて付く十篇の論文がある。
ところが、この十翼はそれぞれの学者が『周易』への個人的雑感にすぎなくて、『周易』本体への解釈ではあらず。参考する価値有るが、これをたどって『周易』を会得しようとするのは、かげを見て顔を描くことと同じく不能である。




『周易』の使い方:

『周易』はよく占卜や陰陽道に使われる。そんな神秘的術は師伝家伝がないと、解るわけが無い。
スミレ荘は独学してごく普通な人間で、知らぬことを言わぬことにしなければいけない、自分に信用させることができるものだけを述べるべき。

 岼廖廚藁顱覆海茲漾砲任△襦
  「来年は、夏暑い、冬寒い」という「予言」はまったくつまらんことだが、事実道理はこのまま。
こよみは時間の周期を表せば、「易」も同じ。起点・振幅・長さなどの要素が見つかったら、法則が出る。「易」の予測性は周期法則によってはたらく。
  『易史伝』にの「正周方復」四つの輪はこの原則に作ったが、これほど限らなく、きっとほかの周期法則も存在する。

◆惻廖戮麓紊亮匆饑験茲梁進未魑録したので、古人が物事に対する遣り方や経験などは時代遅れになったかもしれないが、けっこう現実に活かせるところも多いそうだ。
  二千三千年の長年月には、生存環境また科学技術が進歩したものの、人類の心理欲望は根本的な変りは見えない。原意(真義)が読めるならば、『周易』がまた使えると思う。

『周易』の六十四卦の内容をあらまし分ければ、十の類別にあたる。
政治(19):屯、益、随、明夷、革、臨、履、泰、大畜、大有、乾、鼎、井、蠱、渙、咸、否、観、坤
経済(3):頤、賁、恒
軍事(4):離、同人、夬、師
法律(2):噬「口+盍」、訟
制度(4):損、艮、晋、比
祭祀(4):復、豊、升、萃
国際関係(8):中孚、帰妹、小畜、「女+后」、解、蒙、小過、謙
自然災害(3):震、需、豫
時勢変化(4):既済、大壮、巽、未済
人間生活(13):無妄、家人、節、「目+癸」、兌、大過、困、坎、遯、旅、漸、蹇、剥


『易』の勉強は終わりが無い道でありますが、いまの解釈にすこし満足しております。一人のいのちに載せる使命もだいたい果たしたと思います。これからの生命は自分のものになり、個人にとってもと肝心な作業があるので、『易』のことを二の次にするつもりでございます。
今後、誤りや不届きなところがわかり次第、また修正します。

皆さんのお教えをお待ちしております。

転載元: 『易史伝』

[転載]渡来人たちが日本にやってきた理由 「万里の長城、造らされるの、たいへんだよー」

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ではなぜ中国 朝鮮から渡来人は渡来したのか
渡来人というと僕ら日本人が元から住んでいて、ごく少数の渡来人が朝鮮半島からやってきた、と思っておりますよね?
では縄文人と弥生人の人口の動向をご覧ください。
イメージ 1

縄文末期に縄文人は激減し、中国、朝鮮から弥生人がやってくるけれどもその数はなんと縄文人の7倍以上!
原住民の7倍となれば、アメリカ大陸にヨーロッパからやってきた人たちとアメリカインディアンとの関係ということになりましょうか。

ではなんで大挙して海を渡って日本にやって来なければならなかったのか。
次の年表をご覧ください。
秦 前221 始皇26 秦王政,天下統一。                     BC220年頃 大陸人往来始める  稲作、原初鉄文化普及
前214   33 将軍蒙恬,オルドスの黄河以南を制圧。万里の長城の建設開始
前213   34 焚書令の発布
前212   35 坑儒事件起こる。
前209 二世1 七月,陳渉・呉広の挙兵。九月,劉邦・ 項羽などの反乱
                                                                             BC200年 弥生時代前期(北九州に稲作                                                 金属器を伴う文化の成立、弥生式土器の発達)
 
ほー、秦の始皇帝から逃げてきたのですね、そして日本海を渡って日本に渡来、縄文人と交雑し、日本人が誕生した!
万里の長城、造らされるの、たいへんだもんなー。やっぱり、日本はいいよなー、平和だもん!
 
ではこの人は何系ですかね。
http://www.youtube.com/watch?v=F69eY7Wktu8&feature=related
尖閣問題では応援してますよ。頑張って下さい。

★付録 この人が首相になったとき、名字から判断して「秦氏」に通じて、祖先は秦の始皇帝だった、って新聞に冗談で報道されておりましたよ。
イメージ 2
伝説では蒙古も日本に生き延びたんでしょう?すごいですね、色々な歴史上の人物が日本で生き延びていて。日本に来ると何でも生き延びちゃう。中国人の中華思想を笑えませんね。
昔から日本はガラパゴスだった、ということだ。鎖国するのも分かるな。グローバル的発想は日本人とは正反対の思考形態だな。

転載元: studyhardのブログ

[転載]渡来人たちが日本にやってきた理由 「万里の長城、造らされるの、たいへんだよー」

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ではなぜ中国 朝鮮から渡来人は渡来したのか
渡来人というと僕ら日本人が元から住んでいて、ごく少数の渡来人が朝鮮半島からやってきた、と思っておりますよね?
では縄文人と弥生人の人口の動向をご覧ください。
イメージ 1

縄文末期に縄文人は激減し、中国、朝鮮から弥生人がやってくるけれどもその数はなんと縄文人の7倍以上!
原住民の7倍となれば、アメリカ大陸にヨーロッパからやってきた人たちとアメリカインディアンとの関係ということになりましょうか。

ではなんで大挙して海を渡って日本にやって来なければならなかったのか。
次の年表をご覧ください。
秦 前221 始皇26 秦王政,天下統一。                     BC220年頃 大陸人往来始める  稲作、原初鉄文化普及
前214   33 将軍蒙恬,オルドスの黄河以南を制圧。万里の長城の建設開始
前213   34 焚書令の発布
前212   35 坑儒事件起こる。
前209 二世1 七月,陳渉・呉広の挙兵。九月,劉邦・ 項羽などの反乱
                                                                             BC200年 弥生時代前期(北九州に稲作                                                 金属器を伴う文化の成立、弥生式土器の発達)
 
ほー、秦の始皇帝から逃げてきたのですね、そして日本海を渡って日本に渡来、縄文人と交雑し、日本人が誕生した!
万里の長城、造らされるの、たいへんだもんなー。やっぱり、日本はいいよなー、平和だもん!
 
ではこの人は何系ですかね。
http://www.youtube.com/watch?v=F69eY7Wktu8&feature=related
尖閣問題では応援してますよ。頑張って下さい。

★付録 この人が首相になったとき、名字から判断して「秦氏」に通じて、祖先は秦の始皇帝だった、って新聞に冗談で報道されておりましたよ。
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伝説では蒙古も日本に生き延びたんでしょう?すごいですね、色々な歴史上の人物が日本で生き延びていて。日本に来ると何でも生き延びちゃう。中国人の中華思想を笑えませんね。
昔から日本はガラパゴスだった、ということだ。鎖国するのも分かるな。グローバル的発想は日本人とは正反対の思考形態だな。

転載元: studyhardのブログ

浙江省から提携構築型対日投資ミッション訪日団が9月に来日

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港貿易発展局・浙江省商務庁主催で、浙江省から提携構築型対日投資ミッション訪日団が9月に来日し商談会が開催されますので、ご案内させていただきます。

参加費無料で、9月6日(木)に事前説明会(会場:大阪商工会議所)、9月19日(水)に商談会(会場:帝国ホテル大阪)が開催されます。

来日浙江省企業は、特に以下の分野に興味があるとのことです。
-環境技術(省エネ・新エネ、水・大気処理、廃棄物処理、グリーン生産等)
-オートメーション技術(製造の自動化)
-バイオ、製薬
-新素材
その他の分野においては、それぞれの企業の本業に関わる技術・製品であれば、興味があるとのことです。

ご興味のある方は、添付資料もしくは、下記URLをご確認の上、直接主催者へお申し込みください。

商談会案内書・申込書 http://info.hktdc.com/jp/OsakaSeminar0906.pdf
来日浙江省企業プロフィール http://info.hktdc.com/jp/Zhejian.pdf

[転載]中国の三国時代(後漢滅亡220年~西晋の中国統一280年)に起きた中国大陸の人口の激減は、大きな影響を与えた

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三国時代 (中国)

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元謀藍田北京原人
神話伝説三皇五帝
黄河長江遼河文明
西周
東周春秋
戦国
前漢
後漢
三国
西晋
東晋十六国
南北朝北魏
西魏東魏
北周北斉
 
 
五代十国
北宋西夏
南宋
北元
後金 
 
満洲中華民国
 
中華人民共和国中華民国
台湾
中国の歴史年表
中国朝鮮関係史
Portal:中国
三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。
229年までに(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。
 
 
人口減少
この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた。
 
 当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。
 例えば、後漢末の桓帝永寿三年(157年)に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。
 
 数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。
 しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある。
 
 また、中国において最初の発音記号であるとされる反切が登場したのもこの時期であり、漢民族人口の激減の為、言語・発音の混乱が起こり、その為に、為政上、文化保存上、なんらかの対応処置が必要になったのであろうと分析する説もある。
 
 また、地理志などの公式統計以外にも、例えば三国末期や西晋初頭の史書中に見られる各国政府高官(皇甫謐(晋)や陳羣(魏)、朱照日(呉)等)の発言においても、
「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」
などといった当該現象を示唆する箇所が複数あり、これらの記述も激減の傍証として使われることが多い
(ただし、「10分の1」というのは、大幅な戸数の減少を意味する脚色で、実際には規定上郡県の戸籍には掲載されない屯田民の方が戸籍民よりも多く、彼らを含めればそこまでの戸数の減少はなかったとする見方もある)。
 
 
 なお、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝元始二年(2年)において5959万余であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元二年(57年)は2100万程度で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
 
 
 
 
 五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。
 後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。
 
戦乱の前段階 [編集]
西晋時代の北方遊牧民族の領域
 
 前漢宣帝の時代に匈奴が分裂し、後漢光武帝時代には落尸逐鞮単于が光武帝の下に入朝して匈奴は漢族と混在するようになった。その後も匈奴は内部抗争を続け、北アジアの覇権は鮮卑に奪われる。その後は徐々に南進して、後漢末期には山西省北部に居住するものもいた。
 
 匈奴を追い落とした鮮卑は2世紀ごろに檀石槐の元で北アジアに覇権を唱えたが、その後分裂し、次第に長城以南に移り住むようになった。
 西にいた族は何度か漢に対しての反乱を起こし、その捕虜となった者は甘粛に居住するようになっていた。中には更に進んで、陝西にまで居住するものもいた。
 族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていた。この氐族は漢化が激しく、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていた。
 
 また、三国時代には、曹操曹丕は、監視強化や当時中国大陸で起きた人口の激減への対策として、周辺異民族の中国大陸内への移住政策を強行。特に曹丕は石碑を立てて範囲を決めるなどして、中国周辺の漢人の中原への帰還を熱心に奨励し、周辺異民族の進出はますます促進された。
 
 このように五胡は前漢から後漢、三国期にかけて移住してきたのであり、西晋の終わりになって唐突に侵入してきたわけではない。これら中国の支配下におかれた諸民族はそれまでの部族形態を失って、中国の傭兵として使われたり、奴隷同様の扱いをされた者も多くいた。このような扱いに対する不満が匈奴の首長劉淵の決起に繋がる。
 
 
 
 

中国の人口の歴史

 
中国の全国的な戸籍登録人口の最古の記録は、前漢の平帝の元始2年(西暦2年)の数字で、人口59,594,978人、戸数12,233,062戸、という数字が残っている。この数字には課税の対象外だった少数民族や奴婢が含まれず、また、相当な脱漏・遺漏があると見込まれるので、実人口は約7千万から8千万くらいだったと推定されている。
 

春秋時代の人口推定は保有戦車数が根拠

 東周は統治力が衰えたため、各地で諸侯が割拠し、それぞれ富国強兵政策を行った。春秋時代(西暦紀元前770-前403年)にはまだ戸籍調査は行われた気配はないが、国力を戦車の保有数であらわすようになったので、この数字をもとに当時の人口を推定することができる。
 「千乗の国」とか「万乗の君主」という言い方がある。これは、「千両の戦車をもつ大国」「一万両の戦車を保有する偉大な王」という意味である。『周礼』によれば、一般に、戦車1両につき、馬4頭、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されており、また別に輜重車もあって一定の比率で戦車にまぜて配備された。当時の記録によれば、春秋時代後期の各国の戦車保有数の合計は25,000両であった。戦車・輜重車の比率とそれぞれの規定随行人数から単純計算すると、各国の兵力合計87万5千人となる。古代中国では、戦争の形態が現在とは違い、徴兵率は全国民の五人に一人という高率が一般的だったので、結局、春秋時代の後期の総人口は推定で500万人前後になる。
 
 
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


東大寺盧舎那仏像

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東大寺盧舎那仏像

 
東大寺盧舎那仏像
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。
 
 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われたが、大仏は中世、近世に焼損したため大部分が補修されており、建立当時の部分はごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦宣明暦の長暦による。
 
概要
東大寺盧舎那仏像
 
 東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された[1]
 
 大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ、国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。
 天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が担当した。
 
 大仏と大仏殿はその後治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。
 
 現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。
 台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
 
 現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものが存在する。よって「世界最大の木造組建築」とするのが望ましい。

略年表

 
 正史「続日本紀」、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する「大仏殿碑文」「延暦僧録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。
  • 天平12年(740年) - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。(続紀)
  • 天平13年2月14日(741年3月5日) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり)を発する。(類聚三代格など)
  • 天平15年10月15日(743年11月5日) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮(しがらきのみや)にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
  • 天平16年11月13日(744年12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の「骨柱」を立てる。(続紀)
  • 天平17年(745年) - 恭仁宮難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
  • 天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
  • 天平19年9月29日(747年11月6日) - 大仏の鋳造開始。(碑文)
  • 天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) - 大仏の鋳造終了。(碑文)
  • 天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)
 なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了であった。

大仏造立の思想的・時代的背景

華厳経と盧舎那仏

 
 大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、華厳経に説かれる盧舎那仏という名の仏である。華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。
 前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「ヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(マハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。
 
 『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした華厳経に基づく信仰があった。

大仏造立の詔

 聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発した。詔の全文は『続紀』などにあるが、聖武は「菩薩の大願を発(おこ)して盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る」ことを発願し、そのためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。
 実際に、大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は、実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、森蘊(おさむ)による東大寺境内の地形調査で判明している。
 
 詔のこれに続く部分には「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」という著名な句がある。聖武は、自分の権勢を誇示する一方で、「一枝の草、一把の土」をもって大仏造立を手伝おうとする者があれば、それを許せ、役人は大仏造立を口実に人民から無理な租税の取立てをしてはならない、という意味のことを述べている。

時代背景

 大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。
 そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である「金光明最勝王経」(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教の護法善神である四天王が現れ、国を護るという。
 聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
 
 聖武が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘(疫病)で相次いでこの世を去った。
 そのほかにも、天平時代は例年旱魃飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。

大仏鋳造の経緯

鋳造手法

『東大寺要録』に引く「大仏殿碑文」によれば、天平17年8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で大仏造立が開始されている。『続紀』によれば、天平18年10月6日(746年11月23日)、聖武天皇は金鐘寺(東大寺)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行っているが、これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。「碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日(747年11月6日)に開始され、天平勝宝元年10月24日(749年12月8日)に終了した。「碑文」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。その造像手法は次のように推定されている。
  1. まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。
  2. 大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
  3. 中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」(雌型)をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。
  4. 外型を適当な幅で割り、中型から外す。
  5. 外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。
  6. 中型の表面を一定の厚み(数センチメートル)で削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。
  7. 一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。
  8. 炉を持ち込み、高温でを溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。中型を削ってできた空洞がそのまま完成像の銅の厚みになる。大仏の場合、巨像であるため、脚の部分から頭部まで全部で8段に分け、丸2年かけて鋳造したことが知られる[3]
 制作は以上で完了した訳ではなく、鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀中毒により多くの人命が失われたとも言われている。

[転載]長崎県松浦町鷹島水底調査結果により現物を見て元寇を考える

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平成6・7年度の調査

碇の検出状況
 平成6年度の調査において、はじめて海底に埋没した状態で碇が発見された。
 
 遺物が出土した地点は、およそ水深-20m~22mの間であった。
碇実測図と碇復元模式図
 
 1号~4号碇は、先端の部材がほぼ残存する良好な遺存状況のもので、列をなして検出された。全て同一方向に打ち込まれたものであり、また層位から見ても同一時に投錨されたものと考えられる。いずれもアカガシ製である。
 このうち3号碇がもっとも大きく、現存長2.6m、幅3.12mで、復元的に考えると堆定8~9mの長さになると思われる。先端部の残りが良いのは、海底の砂層に突き刺さっていたためで、基部側は腐食や虫害によって失われている。
 
 これらに装着されていたものを含め、碇石は合計17点出土している。花崗岩・石英班岩・疑灰質砂岩・石灰岩などの石材があり、長さ1.3m・0.7m・0.5mの3種の規格が見られる。1号~4号碇によれば、木製碇の軸部先端にⅤ字に歯が取り付けられているが、碇石は歯と直行するように2個が装着される形態であった。
 
 今回の調査以前に、鷹島海底から16個の碇石が発見されていたが、それらの特徴としては、
①よく整形された扁平な箱形なものが多い、
②完形品はなく中央部から折れた状況で片方のみの出土である、
③大形のものは少なく長さ80cm程度のものが多い、
といった点が一般的に認識されていた。
 
 こうした特徴のうち、とくに半載品が多いという認識は、博多湾をはじめ西北九州の沿岸地域などから発見される碇石が、蒙古碇石とよばれる角柱状の大形の碇石であり、こうした形状が本来の姿であると考えていたからであった。
 しかし、今回の調査において、碇石が実際に木製碇と装着された状態で発見されたことにより、ひとつの碇に1個の碇石が装着されるという認識が誤りであり、鷹島海底出土の碇石の場合は、2個の碇石が対となって左右に装着されることが判明したのである。
 
 碇の材であるアカガシ亜属は、中国南部、韓国南部、九州~沖縄あたりの亜熱帯か暖帯に広く分布するもので、産地を推定することは困難であるが、花崗岩については、化学分析とK-Ar法による放射年代測定の結果、中国南部産である可能性が高いとされている。
 
 以上のように、今回の碇の埋没状態は、かつてこの海域で大海難事故が起こった事実を示すもので、弘安4年(1281)の元寇の事実を改めて想起させる発見となった。
 また、今回木製碇と碇石が組み合わさって出土したが、同様な事例はこれまで東アジアの中でも報告されておらず、その構造が判明したことは、当時の船の碇の研究上極めて重要なものとして特筆される。
 
 なお、木製碇をはじめとする木製遺物の保存処理については、平成8年・9年度に国庫補助により建設された鷹島町の埋蔵文化財センターで現在脱塩処理中である。
 
 
 
 
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でた! 管軍総把印
 
鷹島の管軍総把印
県指定有形文化財・歴史資料
指定年月日平成元年3月31日
所在地鷹島町神崎免146
所有者鷹島町
 昭和49年,鷹島町の神崎海岸で迎国市氏が発見した。青銅印で,印台は6.5センチ四方,厚さ1.5センチ。鈕の高さ4.4センチ,幅3.1~3.4センチ,厚さ1.2~1.4センチ。重量726グラムのものである。
 印面には元国字のパスパ文字が刻まれている。佐々木猛氏によれば「管軍総把印」の意である。
 また鈕の右側に漢字で,「□軍□把□」とわずかに判読でき,第三番目は総の様にみえる。全体として印面同様,「管軍総把印」と記されていたらしい。
 一方,鈕の左側に,同じく漢字で,「印」「至元十四年九月造」の字がみえる。これは元のフビライ治世下の西暦1277年で,弘安の役(1281)の4年前にあたる。
 また総把とは,今日の中隊長程度の将校の意で,これがその部下を統轄(管軍)するもので,この地位にあった者が,弘安の役の際持込んだと思われる。
 管軍総把印は,従来二点発見されているが,わが国内では最初の発見例で,元寇関係資料として誠に貴重である。
 
 
 
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   元寇資料館より
    赤や黄色は元軍の船です
 
 
 
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元寇資料館より 
 
 
元寇最後の激戦地、鷹島(2009.09.02.更新)
印刷用にPDFをダウンロードする

松浦市立鷹島歴史民俗資料館・松浦市立鷹島埋蔵文化財センター


松浦市立歴史民族資料館 
 元軍の2回目の襲来となった「弘安の役」では、総勢4,400隻の船と約14万人といわれる元軍の大半が、暴風雨によって鷹島周辺の海に沈みました。
 1980年(昭和55)、鷹島の海は“水中考古学調査の最大の宝庫”として選ばれ、翌年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見されました。この貴重な資料を収集保存して調査研究を進めるとともに、一般に公開して元寇の歴史を伝えていくために歴史民俗資料館が開館しました。

引き揚げられた元寇遺物 引き揚げられた元寇遺物

松浦市立鷹島歴史民俗資料館に展示されている引き揚げられた元寇遺物

 ここには、海底の中から引き揚げられた遺物のほか、考古資料や民俗資料などが展示されています。青銅印、壺、陶磁器片、石製品、鉄製品、てつはう(炸裂弾)、剣などなど・・・。また、海底遺物の調査、引き揚げ、保存処理などの流れが理解できるよう、水中考古学調査に関する展示もあります。

松浦市立鷹島埋蔵文化財センター 
 隣接して建っている松浦市立鷹島埋蔵文化財センターでは、引き揚げ遺物の調査・研究・保存処理をおこなっています。元寇船の大型木製碇や船体の一部などに脱塩処理を施しているところなど、保存処理作業の様子を見せてもらいました。

脱塩処理中の遺物 引き揚げられた元軍の船の碇石

   左)脱塩処理中の遺物:真水に浸けて塩分を抜いています。
   右)引き揚げられた元軍の船の碇石:元寇の歴史を感じることができます。
【主な遺物】

■ 管軍総把印(かんぐんそうはいん)

管軍総把印(かんぐんそうはいん) 
 この印は、鷹島南岸の神崎(こうざき)海岸で貝堀りをしていた漁民によって発見されました。元の官用書体であったパスパ文字で「管軍総把印」と刻まれています。また印背部分の横には漢字体で「至元十四年九月□造」の紀年号と、印面の「管軍総把印」の文字が刻まれています。至元十四年は、西暦1277年にあたり、元寇の時期と一致します。
 1989年(平成元)3月31日、長崎県の有形文化財に指定されています。

■ 大イカリ

大イカリ 
 1281年(弘安4)の弘安の役の際、台風で沈んだ元軍船のイカリだと見られています。平成6年11月神崎(こうざき)港改修工事に伴う鷹島海底遺跡の発掘調査によって発見された複数のイカリのうち最大のものです。
 大イカリは途中で欠けてしまっていますが、その長さ(中心部の碇身(ていしん))は2.66m、もし欠けていなければ推定で7.3mはあったとみられます。また、重量はおもりとなった2つの碇石(いかりいし)の338キログラムを含めて1トン近くだったと思われます。この大きなイカリを使って停泊していた船の大きさは、40メートルほどと推測されるそうです。
【大イカリ発見から展示まで】
平成6年11月発見タビーナ「長いあいだ、その歴史を秘めて海底に眠っていたんだねー。」ゴルゴルくん「一般に公開できるようになるまでには、保存のための処理が必要なんだ。」
平成6年12月引き揚げ
平成6年12月~平成9年8月脱塩処理
平成9年9月~平成10年7月 PEG前処理
平成10年8月~平成20年8月PEG処理
平成20年9月~平成21年3月真空凍結乾燥処理
平成21年5月3日~
一般公開
 
 
 
 
 歴史とロマンを語る  ようこそ鷹島へ  フグも美味しいらしい
 
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松浦町立元寇資料館にはまた行きたいと思います。

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

【尖閣上陸】中国当局が「急進派利用」 香港実業家、資金面で支援か

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【尖閣上陸】
中国当局が「急進派利用」 香港実業家、資金面で支援か

2012.8.16
 
 
 
 
 【上海=河崎真澄、台北=吉村剛史】沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)に15日、活動家らを上陸させた香港の民間団体「保釣行動委員会」が資金面などで中国当局の影響下にあるとの見方が浮上している。
 1996年設立の同委は以前、中国共産党と対立関係にある香港の急進的な民主派が主導。天安門事件(89年)の評価見直しや民主化運動弾圧への非難など過激な言動で知られ、共産党政権とは対立関係にあった。しかし現在は、香港の実業家で中国の国政助言機関である人民政治協商会議(政協)委員である親中派の劉夢熊氏がスポンサーとなっている。
 
 日中関係筋は、「尖閣諸島の国有化方針など、日本側を牽制(けんせい)したい中国当局が急進派の活動家らを利用したようだ」と話している。
 
 香港の海事当局は2006年以降、香港から尖閣に向かう抗議船を書類不備などの理由で阻止してきた。しかし今回、12日に出航した抗議船へは、停船を求めたものの、活動家らが操舵室に鍵をかけて抵抗するとあっさり撤収。公海に出ることを香港当局が事実上、認めた。その背後に中国当局の容認指示があった可能性が指摘されている。
 
 中国外務省の秦剛報道官は15日、「中国人の安全が脅かされることのないよう日本側に要求する」などと述べ、表向きは中国当局と関係のない民間団体の自発的行動との立場を取った。
 尖閣をめぐってはこれまで、中国と台湾がそれぞれ領有権を主張し始めた1971年以降で2回、不法上陸を許していた。96年7月、日本の政治団体が北小島に「灯台」を建てたことをきっかけに、中国、台湾や香港で大規模な抗議運動が発生し、同年10月に4人が上陸。2004年3月には7人が上陸した。
 
 【用語解説】
入管難民法 正式名称は出入国管理及び難民認定法。「上陸許可を受けないで上陸する目的を有する外国人」の入国を禁止しており「入国」は領海への侵入も含まれる。3年以下の懲役や300万円以下の罰金などの罰則がある。
 
 
 
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「夏休み・親子エネルギー教室」&「人や企業をひきつける都市のみどり」無料セミナー

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★親子で楽しく節電、さらにお子様の夏休み課題にも役立つ!!
「夏休み・親子エネルギー教室」を開催します
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 一般財団法人大阪府みどり公社(大阪府地球温暖化防止活動推進センター)
では、8月25日(土)に、今夏の節電対策にもつながり、お子様の夏休み課
題にも役立つ「夏休み・親子エネルギー教室」を開催します。
 当日は、うちエコ診断に加えて、手回し発電などの体験もでき、親子で楽
しめる内容ですので、ぜひご参加下さい。
 イベントに参加された方には、節電グッズをプレゼントします。
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ください。

※うちエコ診断
 診断員が専用の診断ソフトでご家庭のエコロジー度などをお知らせし、
あなたの家にぴったりな省エネ・省CO2対策を提案して、「省エネで、
いくら光熱費がおトクになるの?」という疑問にお答えします。

▽開催日時
 平成24年8月25日(土)10:00~12:00
▽開催場所
 大阪府立環境農林水産総合研究所 1階 研修室
 (大阪市東成区中道1丁目3-62)JR・地下鉄 森ノ宮駅から徒歩5分
▽内容
 うちエコ診断(40分程度)を受診後、手回し発電などの体験をしてもらいます。
最後に、節電グッズをプレゼントします。
▽対象者
 親子連れの方
▽定員
 先着20世帯(事前申込制)
▽参加費
 無料
▽主催
 一般財団法人大阪府みどり公社(大阪府地球温暖化防止活動推進センター)
▽申込方法
 8月22日(水)までに、下記ホームページから、【エネルギー調べ】に必要
 事項を 記入し、メール(center@osaka-midori.jp)またはFAX(06-6266-8665)
 にて申込みを お願いします。
 ※イベント会場には駐車場はありませんので、公共交通機関でお越しください。
▽詳細
 http://osaka-midori.jp/ondanka-c/uchieco/natsu.html
▽お問合わせ・お申し込み先
 名称  一般財団法人大阪府みどり公社(大阪府地球温暖化防止活動推進センター)
 所在地 大阪市中央区南本町2-1-8 
 TEL:06-6266-1271 FAX:06-6266-8665
 E-mail:center@osaka-midori.jp

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★第49回エコデザインセミナー
 みどりの風を感じる大都市・大阪に向けて
  ~人や企業をひきつける都市のみどり~
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 みどりは都市の風格を高めるだけでなく、ヒートアイランド対策にも寄与
するなど、人口集積や企業の集積をめざす大阪の魅力づくりには欠かせない
ものと言えます。さらに、みどりには、府民や地域の活動の輪をひろげ、
豊かなくらしの実現にも大きく貢献します。本セミナーでは、みどりと風に
よる都市空間の再生事例やみどりづくりにつながる先進的な取組みなどを
紹介します。

▽開催日時
 平成24年8月31日(金)14:00~16:40
▽開催場所
 講演会:おおさかATC グリーンエコプラザ ビオトーププラザ(11 階)
  (大阪市住之江区南港北2-1-10 ATCビル ITM棟)
▽内容
 「都市のグリーン・インフラストラクチュアをつくる」
   ~高架構造物の撤去または再利用を通じた都市空間の再生~
    講師:名古屋大学大学院環境学研究科准教授 村山 顕人
 「梅田ミツバチプロジェクトの取組み」
   ~都市養蜂を通じた自然との共生への提言~
    講師:梅田ミツバチプロジェクト 代表 松本 剛      
 「グランドデザイン・大阪について」
   ~世界と戦える元気な魅力ある大都市へ~
    講師:大阪府副知事 小河 保之
▽参加費
 無料
▽定員
 100名(先着順)
▽参考サイト
 http://www.ecoplaza.gr.jp/img/pdf/20120831seminar.pdf
▽お申込み先
 NPO法人エコデザインネットワーク事務局
 TEL:06-6615-5272  FAX:06-6616-7098
 E-mail:info@eco-design.net


​平和ボケから目覚めよ日本人

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中国のネットで尖閣が書かれています。

​前々から201​2年が危ないと予測していたことが現実になりつつあり残念です。

​日本の間抜け振りを見て、日本は四方から集中攻撃を浴びせられてきた。

​●香港の運動家などというのは中国政府の回し者。純然たる民間人ではなく政府が表面に出ず、まず、これらの連中を使い相手の出方を見る。

​フイリッピンなどとの南シナ海の争いも同じ手口。


●日本の出方が以前の菅や仙石のときのように土下座外交なら次は尖閣に漁民の避難港という名目で中国が建造物の建設にかかるでしょう。

​※口で日本を脅かし、日本が引き下がれば一番コストがかからずに中国の領土にできますからね。


それを注視している韓国は日本は脅せば引き下がる国と舐めきって今度は対馬を盗りに来るでしょうね。

​ロシアは、国後、択捉のほかに歯舞、色丹も領有してしまう。

​さて、野田はどう対処するであろうか。


中国は嫌がらせで、難癖をつけまた日本人を拘束するかも知れない。日本企業に対して経済的な嫌がらせをかけてくるであろう。

​そのときに丹羽大使などが裏で経団連をあおり、日本政府に圧力を掛けて来るであろうが野田は毅然と跳ね除けられるであろうか。

​薄熙来のこともあり、中国内部の権力争いは熾烈。日本政府はどこまで把握しているのであろうか。

​本来なら丹羽大使がその辺の情報をしっかりと掴んでいなければ、ならないのですが、彼は中国の飼い犬。

​日本も中国も韓国も政権交代の微妙なタイミング。

​●日本はこのタイミングを見誤れば日本の将来はますます弱体化する。日本の将来に大きな禍根を残す。

​日本政府をはじめ政府を監視する役目のマスコミ、国民の領土問題に対する意識が試されてきた。

​いつまでも平和ボケしてはいられない。


​もしかしたら習近平政権は長く続かないかもしれない。(​途中で病気という名目で交代させられるかも知れない)

​薄熙来派が復権したら中国は先祖がえりをする。

​現憲法の破棄。新憲法の成立は、なかなかそこまでは、いけないであろうから、自衛隊法を改正し離島防衛の強化のために交戦を認めることにしてもらいたいが、これも無理であろう。

​「いつまでもあると思うな親と金」

​「いつまでもあると思うな平和と安全」

​平和ボケから目覚めよ日本人。・・​ですよね。

 
 
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​今の日本はロウソクの灯をともして、子供達の未来のためになどという奇麗事のデモはしても、日本の領土を死守せよ、というデモは起きない。

​ロウソクデモの連中は口先の似非平和主義者。国家の主権を侵犯されて子供達の未来があるわけがないのにね。

​新宿のコニカ・サロンで韓国の慰安婦写真展を開催していたのでニコンに抗議に行き、会場で慰安婦展ではなく、これは売春婦展である言っていた。

​●尖閣沖には中国の武装船かウヨウヨ居て石垣島の漁民も怖くて近寄れない。
​住まわせてというが、今の日本の政治は地方では食っていけないのでどんどん過疎化しているではないか。

​今の日本で日本の海保が漁民を守ってくれない。(法​律上)

​日本が非武装中立などと寝ぼけているのが一番の癌。日本国民が核武装議論のできる大人の国にならなければね。
​現実の世界は否応なしにパワーバランスの上にある。

​中国人(漢民族)は、そんな日本人を「叩​いても叩いても尻尾を振って擦り寄るばか犬」とセセ笑っている。​日本は中国を勝手に美化しすぎている。

​中国人(漢族)には正義とか倫理とか、譲歩するなどは関係ない。相手が引けば相手ももの(領土)でも奪い取る。これが中国人。

​だから日本は、中国よ来るなら、来い!と毅然と祖手戦う意識を見せなければ尖閣から沖縄まで盗られる。

​今、日本が中国や韓国、ロシアに領土を侵犯されているのは、日本国民が今まであまりにも飽食に浸り平和ボケしていたかではないですか。

​先進国といわれる国々でスパイ防止法がないのは日本だけ。

○国さんからのメールを紹介しました。
 
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 薄 熙来(はく きらい)は中華人民共和国上海閥系)の政治家。第17期中国共産党中央政治局委員、元重慶市党委員会書記。父は国務院副総理などを務めた薄一波
 
 文化大革命初期は紅衛兵組織「連動」のメンバー。「連動」は「親父が英雄なら息子は豪傑、親父が反動なら息子は馬鹿者」とする血統論を宣伝した。まもなく父親の失脚にともない投獄される(公式履歴では学習班で学習とされている)。1978年2月から1979年9月まで北京大学歴史学部で学ぶ。1980年10月中国共産党入党。1982年には中国社会科学院を卒業し修士号取得。
 中央書記処研究室、弁公庁を経て遼寧省に転出、1992年から大連市長を務め、環境政策に力を注ぎ、また外資を呼び込んで経済成長も目覚しかった。2001年からは遼寧省省長を務めたが、省内にあった国有企業の多くが停止状態になり失業率は全国最高となった。2004年に商務部長として国務院入り。2006年から中国製品の品質に相次いで問題が起こり、安全宣言を何度も出すことになった。
 中共第15期党中央委員候補、第16、17期党中央委員、第17期党中央政治局委員。
 
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[転載]土木遺産台湾ツアー「烏山頭水庫と台南水道」

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転載元: OPTC土木工学科~建設環境

竹島問題の国際司法裁への提訴は日本の平和姿勢を示す

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竹島問題の国際司法裁への提訴は日本の平和姿勢を示す

米国は日韓の対立を望まない

 
 韓国の李明博大統領が8月10日に竹島を訪問した。その後も日本の影響力や慰安婦問題について強い発言が続いた。日韓関係はなぜ今、もつれたのか? 国際司法裁判所への提訴はどのような意味を持つのか? 元外交官、元駐イラン大使で、「日本の国境問題--尖閣・竹島・北方領土」の著書もある孫崎 享氏に解説していただいた。
 
 李明博・韓国大統領が8月10日、竹島を訪問した。韓国大統領による竹島訪問は初めてのことである。
 「韓国大統領による竹島訪問が、韓国の国内政治においてどういう影響があるか」と、「日本と韓国の外交関係において、いかなる意味があるか」を分けて考えてみたい。
 
 韓国は本年12月19日大統領選挙を迎える。李明博大統領自身は大統領選挙に出ない。けれども今は、与党セヌリ党(本年2月従来のハンナラ党から改名)が政権を維持するか、野党側が勝利するかを決める重要な時期である。どちらが勝利するかは、経済問題および南北問題をどう処理するか、その方向を大きく左右する。
 
 この時期、李明博大統領の支持率が急落している。2008年2月に大統領に就任した直後、支持率は57.3%に達した。しかし、次第に低下し、2010年は支持と不支持がほぼ拮抗。2011年に入ってからは不支持が増大し、2012年7月には不支持58%、支持30.5%となった。最近では17%にまで落ち込んだ時もあった。こうした状況において、韓国で支持率を回復させるには、対日強硬策を実施するのがもっとも手っ取り早い。
 
 ただし、対日強行策はこれまで、「禁断の政策」でもあった。韓国大統領が竹島を訪問すれば、日韓関係にマイナスが生じる。それゆえ実施できない、という共通認識があった。
 
 この点から見て、次の報道は興味深い。李明博大統領が竹島訪問後、「日本の国際社会での影響力は“昔と同じではない”と述べ、日本の国力が落ちたとの認識を示した」(8月13日付東京新聞)。李大統領は日韓関係が少しくらい悪化しても、日本の力が落ちた今、大した問題ではないと判断したのである。
 
 他方、韓国世論の反応を見てみたい。同じく8月13日付東京新聞は「世論調査機関は同日、竹島訪問を評価する人が66.8%、否定的な人は18.4%だったと明らかにした。韓国政府が依頼した別の機関の調査では評価が84.7%という」と報じている。
 李大統領が竹島を訪問したのは、日韓関係を若干犠牲にしても、支持率回復を優先させたということである。

竹島帰属に関する歴史的経緯

 竹島問題は歴史的に見ると、実に極めて複雑である。ここで幾つかの基本的事実を把握しておきたい。
(1)日本は1945年8月14日米英ソ中に対し
「天皇陛下ニオカレテハ“ポツダム”宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ」
との通告を関連在外公館に発出した。
 
 ポツダム宣言は、
「日本の主権は本州、北海道、九州、四国と連合国側の決定する小島」としている。
本州、北海道、九州、四国以外の地は「連合国側が決定する」ことに従うとした。
 さらに9月2日、重光葵外相、梅津美治郎・参謀総長が東京湾のミズーリ艦上で署名した降伏文書には「ポツダム宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スル」と記されている。
 
 
(2)連合軍最高司令部訓令(1946年1月)は、日本の範囲について「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島等を除く」としている。
 
(3)サンフランシスコ講和条約での扱い
 ここでは「第二章 領域、第二条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」としている。放棄の対象とする島として、竹島を明記してはいない。
 
 この点に関して、米ラスク国務長官が韓国大使宛に1951年8月10日に発した書簡がある。「我々は日本との平和条約に関する韓国側要請を受理した。独島を権利放棄の中に含めるようとの要請に関しては、応ずることは出来ない。我々への情報によれば独島は朝鮮の一部と扱われたことは一度もなく、1905年以降島根県隠岐島司の所管にある」。
 
 この時点では、米国は竹島を日本領と見なしている。
 
(4)米国に地名委員会がある。同委員会は1890年の大統領令及び1947年の法律により設置されたもので、外国を含め、地名に関する政策を扱う。2008年、ブッシュ大統領は訪韓する直前に、韓国大使と会談した。ブッシュ大統領はこの後、ライス国務長官に竹島について検討するよう指示し、同島を「韓国領」に改めた。米国地名委員会は今日でも竹島を、韓国側の名称である「独島」と記載している。
 
 この動きに対して同年7月31日付朝日新聞は「町村官房長官は7月31日の記者会見で、“米政府の一機関のやることに、あれこれ過度に反応することはない”と述べ、直ちに米政府の記述の変更を求めたりせず、事態を静観する考えを示した」と報じている。
 
 町村信孝官房長官は重大な過ちを犯した。第1に、これは「米国一機関のやっていること」と片付けられるような小さな動きではない。第2に、米国がどのように判断するかは竹島の帰属に深刻な影響を与える。
 以上を見ると、日本と韓国が各々自国領と主張する時にはそれなりの根拠を有している。

領土問題に対する8つの方策

 日本は隣国と「北方領土問題」「尖閣諸島問題」「竹島問題」を抱えている。我が国は領土問題にどのように臨んだらよいのであろうか。
 
(い)第1に相手の主張を知り、各々言い分がどれだけ客観的であるかを理解し、不要な摩擦は避ける。
 
(ろ)第2に、領土紛争を避けるための具体的な取り決めを行う。中国とASEAN諸国が2002年11月署名した「南シナ海の行動宣言」には「領有権紛争は武力行使に訴えることなく、平和的手段で解決する」「現在(当事国に)占有されていない島や岩礁上への居住などの行為を控え、領有権争いを紛糾、拡大させる行動を自制する」の項目がある。これが参考になる。
 
(は)国際司法裁判所に提訴するなど、解決に第三者をできるだけ介入させる。
 
(に)緊密な多角的相互依存関係を構築する。
 
(ほ)国連の原則を前面に出していく。国連憲章第2条第4項は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」としている。
 
(へ)2国間で軍事力を使わないことを共通の原則とし、それについて、しばしば言及する。これによって、遵守の機運をお互いに醸成する。
 
(と)領土問題は、それだけで紛争に拡大することはない。しばしば、地下資源や漁業資源がからむ。従って、地下資源や漁業資源について合意し、それを遵守する。日中間には「日中漁業協定」がある。資源に関する共同開発などの話もある。これらを進め、これから対立が生じないようにする。
 
(ち)現在の世代で解決できないものは、実質的に棚上げし、対立を避ける。あわせて、棚上げ期間中は双方がこの問題の解決のために武力を利用しないことを約束する。

国際司法裁判所への提訴は、日本の平和姿勢を世界に伝える

 これらの幾つかの手段の中で、竹島に関しては、国際司法裁判所への提訴問題が浮上した。8月11日付毎日新聞は「日本政府は11日、竹島の領有権問題で約半世紀ぶりに国際司法裁判所に提訴する検討に入った」と報じた。
 
 国際司法裁判所は紛争当事者双方の合意がなければ手続きが始まらない仕組みである。8月11日付毎日新聞は「韓国外交通商省当局者は11日、島根県の竹島の国際司法裁判所への提訴について“一考の価値もない”と述べ、裁判開始に必要となる提訴への同意を拒否する考えを鮮明にした。韓国は応じない可能性が高い」と報じた。
 
 確かに国際司法裁判所への提訴は、相手国が応じなければ手続きが始まらない。しかし、日本側が提訴することは、次の2点を国際的に示す長期的な意義がある。
(1)日本は領土問題を平和的に解決したい、と考えている。
(2)日本側は「日本側主張が客観的に正しい」と信じている。領土問題を平和的に解決する方向を示すわけで、肯定的評価が与えられるべきと考える。
 
 日本政府が竹島について国際司法裁判所の判断をあおぐ方針を出したことは、将来、尖閣諸島の処理についても同様の方針をとることを示唆する。日本は竹島を実質的に管轄している韓国に自制を促している。これは、日本が尖閣諸島に対する自己主張を抑制すべきだとの論につながる。

米国は日韓の対立を望んでいない

 竹島問題で日韓の対立が深まったことを、米国は肯定的に見てはいない。中国の軍事的脅威が高まるなか、米国は、日韓が軍事協力を進展させることを望んでいる。竹島問題の先鋭化はこの流れに大きなマイナスとなる。
 
 
 
 
 
 
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西日本の選奨土木遺産(整理中)

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西日本の選奨土木遺産

 
 土木学会選奨土木遺産(どぼくがっかいせんしょうどぼくいさん)は、社団法人土木学会が、日本国内の歴史的建造物のうち土木構造物について、これの保存に資することを目的として構造物群を「土木遺産」に認定して顕彰する制度、及びこれにより顕彰された土木構造物群のこと。2000年に認定が始まっている。
 基本的には日本国内の土木構造物が対象だが、2009年以降、日本統治時代に建設された台湾の土木構造物についても認定が行われている。
 
 <和歌山県>
友ヶ島砲台群(和歌山県和歌山市) 中古沢橋梁(和歌山県伊都郡九度山町)  
龍之渡井(和歌山県伊都郡かつらぎ町~那賀郡那賀町)
 
 
夷川発電所、京都市左京区
  • 琵琶湖疏水の発電施設群
    • 蹴上発電所(京都府京都市)
    • 夷川発電所(京都府京都市)
    • 墨染発電所(京都府京都市)
  • 惣郷川橋梁(山口県阿武町)
  • 南郷洗堰(滋賀県大津市)
東西用水酒津樋門(岡山県倉敷市)
  • 東西用水酒津樋門(岡山県倉敷市)
  • 千本堰堤(島根県松江市)
  • 男木島灯台(香川県高松市)
  • 出島橋(長崎県長崎市)
  • 東与賀地区大搦堤防・授産社搦堤防(佐賀県東与賀町)
  • 鹿児島港旧石積防波堤(鹿児島県鹿児島市)
 
  • 梅小路機関車庫(京都府京都市)
  • オランダ堰堤(滋賀県大津市)
  • 若桜橋(鳥取県若桜町)
  • 牛島 藤田・西崎の波止め(山口県光市)
  • 第二領地橋梁(高知県須崎市)
  • 山の田浄水場群(長崎県佐世保市)
 
箱根の函嶺洞門
  • 木曽川揖斐川導流堤(三重県桑名市)
  • 御堂筋(大阪府大阪市)
  • 御坂サイフォン橋(兵庫県三木市)
  • 東山トンネル新逢坂山トンネル(京都府京都市・滋賀県大津市)
  • 福浦隧道(初代、二代目)(島根県隠岐の島町)
  • 旧大浜埼船舶通航潮流信号所(広島県因島市)
  • 大宮橋(愛媛県西条市)
  • 大田発電所(鹿児島県伊集院町)
  • 武庫大橋(兵庫県尼崎市~西宮市)
  • 安治川トンネル(大阪府大阪市此花区~大阪市西区)
  • 児島湾干拓施設群
    • 丙川三連樋門(岡山県岡山市)
    • 大曲第一樋門(岡山県岡山市)
    • 大曲第二樋門(岡山県岡山市)
    • 大曲第三樋門(岡山県岡山市)
    • 奉還樋門(岡山県岡山市)
    • (旧)片崎樋門(岡山県岡山市)
    • 高崎干拓堤防(岡山県玉野市)
  • 大津島(旧)回天発射訓練基地(山口県周南市)
  • 多度津港旧外港東防波堤(香川県仲多度郡多度津町)
  • 詫間海軍航空隊滑走台(香川県三豊市)
  • 栴檀橋(佐賀県佐賀市)
  • 王子橋(京都府亀岡市)
  • 毛馬閘門・洗堰群(大阪府大阪市)
  • (旧)江尾発電所(鳥取県日野郡江府町)
  • 京橋川の雁木群(広島県広島市)
  • 土釜橋(徳島県美馬郡つるぎ町)
  • 本河内高部堰堤(長崎県長崎市)
  • 心斎橋駅舎他、御堂筋線の地下駅群(大阪府大阪市中央区)
  • 上田池堰堤(兵庫県南あわじ市)
  • 七条大橋(京都府京都市東山区・下京区)
  • 両橋(京都府福知山市)
  • 今福線のコンクリートアーチ橋群(島根県浜田市)
  • 三石の煉瓦拱渠群(岡山県備前市)
  • 旭浄水場の一連の歴史的施設群(高知県高知市)
  • 有明海旧干拓施設(熊本県玉名市)
  • 大島海峡(旧)軍事施設群(鹿児島県大島郡瀬戸内町)
  • 平木橋(兵庫県加古川市)
  • 鎧えん堤(滋賀県大津市)
  • 本町橋(大阪府大阪市)
  • 角島灯台および関連施設群(山口県下関市)
  • 旧三高山砲台(広島県江田島市)
  • 呉鎮守府兵器部護岸および関連施設(広島県呉市)
  • 木頭出原谷の鉄砲堰(徳島県那賀郡)
  • 矢岳第一トンネル(宮崎県えびの市)
  • 大渡の用之助港(沖縄県糸満市)
  • 小ヶ倉(水道)堰堤(長崎県長崎市)
  • 烏山頭水庫台湾の旗 台湾台南県官田郷)
  • 三栖閘門(京都府京都市伏見区)
  • 宇治発電所(京都府宇治市)
  • 鐘ヶ坂隧道(兵庫県丹波市)
  • 室戸台風災害復旧橋梁群(岡山県新見市・高梁市)
  • 菊港の東堤・西堤(鳥取県東伯郡琴浦町)
  • 蛤水道(佐賀県吉野ヶ里町)
  • 第三五ヶ瀬川橋梁(宮崎県西臼杵郡)
  • 台南水道(台湾の旗 台湾台南県山上郷)
  • 湊川隧道(兵庫県神戸市)
  • 奈良駅舎(奈良県奈良市)
  • 被爆に耐えた装飾的橋梁
  • 高角橋(島根県益田市)
  • 滝宮橋(香川県綾歌郡綾川町)
  • 深浦水雷艇隊基地跡(長崎県対馬市)
<福岡県>
関門トンネル(在来線用)(山口県下関市~福岡県北九州市) 河内(貯水池)堰堤及び南河内橋(福岡県北九州市)
名島橋(名島橋及び名島川橋梁)(福岡県福岡市) 若津港導流堤(筑後川デ・レーケ堤)(福岡県大川市・福岡県柳川市・佐賀県佐賀市)
 
 
 
 
<大分県>
龍頭橋(大分県杵築市) 川原隧道と石畳(大分県日田町) 明治橋(大分県臼杵市)
 
<熊本県>
三角西港(熊本県三角町) 姫井橋(熊本県菊池市)
 
 
<鹿児島県>
長崎堤防(鹿児島県薩摩川内市) 七窪水源地(鹿児島県鹿児島市)
 
 
<北朝鮮>
水豊ダム: 1930年代後半から1940年代初頭にかけて、日本によって中流域に竣工当時アジア最大級の水豊ダムが建設され、水力発電が行われるようになった。ここで生産される電力は、現在でも北朝鮮の重要なエネルギー源となっている。
 
 

関連項目

外部リンク

[転載]和歌山県の土木遺産(トンネル他)

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名称フリガナ状態所在市町村所在路線(特記事項)竣工西暦和暦延長高さ
10毛見ケミ和歌山市一般道(土木学会選近代土木遺産Aランク)1925T141423.76.2
11新和歌浦第一シンワカウラ1和歌山市廃道(土木学会選近代土木遺産Bランク)1912M45604.23.8
12新和歌浦第二シンワカウラ2和歌山市私有地道(土木学会選近代土木遺産Bランク)1912M45504.23.8
24旧鰈川キュウカレガワ海南市一般道<新熊野街道>                      (土木学会選近代土木遺産Bランク)1886M18163.24.8
54由良洞ユラドウ日高-由良県道23号(御坊湯浅線)                      (土木学会選近代土木遺産Aランク)1889M221383.23.3
56鹿瀬洞シカセ日高-広川廃道(土木学会選近代土木遺産Cランク)1906M391654.54
78旧池田イケダ紀ノ川市廃道(土木学会選近代土木遺産Bランク)1886M191202
134小野坂オノサカ現役みなべ-田辺県道200号(中芳養南部線)                    (土木学会選近代土木遺産Bランク)1936S11743.83.1
140岡坂上富田-田辺旧県道35号(旧上富田南部線)                  (土木学会選近代土木遺産Bランク)1914T3703.43.4
143旧卒塔婆ソトバ上富田-白浜旧県道36号(旧上富田すさみ線)1930S58943.3
144湯崎ユザキ現役白浜町県道34号(白浜温泉線)                      (土木学会選近代土木遺産Cランク)1936S11304.35.1
 
 
 
名称 区市町村 付帯情報 形式 諸元 完成年 文化財等ラン ク評価情報出典

寄合橋和歌山市RC充腹アーチ(欠円)C
北島橋和歌山市鋼ワーレントラス(曲弦,下路)C
中橋,新興橋和歌山市鋼ワーレントラス(英製,ポニー平行弦,ピン結合,下路)C
紀ノ川橋梁(上り線)和歌山市鋼プラットトラス(米製,曲弦,ピン結合,下路,煉瓦橋脚)A(廃)
新和歌第一隧道和歌山市素掘トンネル(煉瓦ポータル)B
 
 
加太駅舎和歌山市木建造物(寄棟屋根)C
紀和駅舎/(旧)和歌山駅舎和歌山市木建造物(切妻屋根)C
 
友ヶ島灯台和歌山市(友ヶ島)石灯台(円形,白御影石)高12.2m(基礎上高9.2m)明治 5→明治23移設(砲台建設のため)→昭和55改修(退息所)燈AB設計: ブラントン/明治初期の灯台/大坂約定の五灯台/吏員退息所も残存(若干の改修)/友ヶ島第一砲台と同居手平倉庫/(旧)和歌山手平火力発電所和歌山市煉瓦建造物(切妻屋根)C
 
有本水源地 ポンプ室,発電室和歌山市RC建造物(ろく屋根)C
真砂浄水場 北送ポンプ室,発電機室和歌山市RC建造物(ろく屋根)C(廃)
 
友ヶ島第三砲台和歌山市(友ヶ島)<由良要塞>
▲砲座(すり鉢状)、地下構築物(弾薬庫,トンネル通路)、棲息掩蔽部(2重壁構造の装薬庫)、曲線石段、観測所、電灯所(発電所)、看守衛舎、便所壁・アーチとも煉瓦造(一部に石)選奨土木遺産A
日清以前の4要塞(東京・対馬・下関・由良)の一つ/フランス式布陣/友ヶ島の5砲台中最大/大半の施設を地下化(下関の金比羅と双壁)/砲台入口~トンネル~棲息掩蔽部にかけての風景が素晴らしい/この時代の発電所は極めて先進的☆/築城史p190/和歌山新報98.7.11/98.7.29/齋藤隆之(廃)深山第一砲台和歌山市休暇村加太・砲台跡園地<由良要塞>

▲砲座、地下構築物(トンネル通路、棲息掩蔽部=弾丸庫・装薬庫)、排水口壁: 煉瓦造、アーチ: C造B砲座間の横檣の下に造られた巨大なトンネルとその脇に設けられた地下棲息掩蔽部が特徴的(他に例を見ない)☆/築城史p193/和歌山新報96.11.17/98.7.11/齋藤隆之(廃)友ヶ島第二砲台和歌山市(友ヶ島)<由良要塞>
▲胸檣。横檣(棲息掩蔽部,地下弾薬庫)、砲座煉瓦造、胸檣はC造+煉瓦造27cmカノン砲4門選奨土木遺産B典型的な「横射砲台」(部厚い胸檣と横檣で防御)/海上に迫り出した石と煉瓦の巨大な壁が特徴的(他に例を見ない)→崩壊が進行☆/築城史p190/和歌山新報98.6.27/98.7.29/齋藤隆之(廃)加太砲台和歌山市加太少年の家<由良要塞>
▲砲座、棲息掩蔽部、観測所壁: 煉瓦造、アーチ: C造C(廃)
 
海軍聴音所和歌山市<海軍紀伊防備隊>RC造昭和16?Cスクリュー音から潜水艦を察知するための施設/友ヶ島で唯一の海軍施設(砲台はすべて陸軍)森崎順臣
 
熊野大橋新宮市三重/(南牟婁)紀宝町国道42号(下り線)/新宮川鋼ワーレントラス(曲弦,下路,一部ポニー)長418.5m,S54m(3T+6t)昭和10→昭和46新橋併設・上下分離B3径間の曲弦トラスと6径間のポニー曲弦トラスがハーモニー紅林章央(旧)
 
岡阪隧道田辺市(西牟婁)上富田町素掘トンネル(煉瓦ポータル)B
小野坂隧道田辺市(日高)みなべ町<南部川村>Cブロックトンネル(Cポータル)B★/本邦道路隧道輯覧p85
 
 
川中口発電所 取水堰堤田辺市練積C堰堤(全面溢流式)C
川中口発電所田辺市木建造物(切妻屋根)C
柱本の手堀り隧道橋本市人道石*素掘トンネル(石ポータル)長約100m明治23頃B要石のない迫石アーチ(中央に切れ目)/迫石と壁石が不整形で切込みはぎで丁寧に接合旧道倶樂部学文路駅舎,九度山駅舎橋本市
(伊都)九度山町南海・高野線木建造物(切妻屋根)大正13C高野線の三角ファサード(木骨風)付き駅舎群の代表駅舎再発見p71
白木隧道(有田)広川町Cトンネル(同ポータル)C
龍之渡井(伊都)かつらぎ町煉瓦(三和土混合)アーチA

中谷川サイフォン(伊都)かつらぎ町煉瓦(三和土混合)トンネル(同ポータル)国登録C
 

中古沢橋梁(伊都)九度山町南海・高野線力<高野山電気鉄道>/恵利谷川鋼トラス(平行弦,上路),トレッスル橋脚長68.58m,S32.004m(t+T+t)昭和 3Bトラスとトレッスルの組合せは国内で2例のみ(現役では唯一)/50パーミルの勾配/杉木立の中小西純一丹生川橋梁(伊都)九度山町南海・高野線力<高野鉄道>/
丹生川鋼プラットトラス(平行弦,上路)長72.52m,S42.070m(g+T+g),斜角左40度10分大正14C製作:日本橋梁/スキューの度合いが強いトラス橋小西純一九度山駅舎,学文路駅舎(伊都)九度山町C
 
高野山駅舎(伊都)高野町南海・鋼索線(高野山ケーブル)RC建造物(方形屋根,2階建)昭和 5国登録B高野山=寺院風(「水煙」つきの方形屋根、格天井)駅舎再発見p147(廃)池田隧道(那賀)
 
打田町煉瓦トンネル(同ポータル)町指定B(旧)岡阪隧道(西牟婁)上富田町田辺市B
 
湯崎隧道(西牟婁)白浜町Cブロックトンネル(石ポータル)C
★/本邦道路隧道輯覧p61(旧)日置大橋(西牟婁)日置川町RC桁C
市江埼灯台(西牟婁)日置川町RC灯台(八角形)B
樫野埼灯台,(旧)官舎(東牟婁)<(西牟婁)>
串本町石灯台(円形)、石建造物(寄棟屋根)燈B/国登録(官舎)A
潮岬灯台(東牟婁)<(西牟婁)>串本町石灯台(円形)燈AA
 
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転載元: OPTC土木工学科~建設環境

[転載]和歌山の土木遺産

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名称 市町村 完成年 文化財等 ランク
 
寄合橋和歌山市C北島橋和歌山市C
 
中橋,新興橋和歌山市C
 
紀ノ川橋梁(上り線)和歌山市A
 
(廃)新和歌第一隧道和歌山市B
 
加太駅舎和歌山市C紀和駅舎/(旧)和歌山駅舎和歌山市C
 
友ヶ島灯台和歌山市(友ヶ島)明治 5→明治23移設(砲台建設のため)→昭和55改修(退息所)燈AB手平倉庫/
(旧)和歌山手平火力発電所和歌山市C
有本水源地 ポンプ室,発電室和歌山市C真砂浄水場 北送ポンプ室,発電機室和歌山市C
 
(廃)友ヶ島第三砲台和歌山市(友ヶ島)選奨土木遺産A
 
(廃)深山第一砲台和歌山市B
 
(廃)友ヶ島第二砲台和歌山市(友ヶ島)選奨土木遺産B
 
(廃)加太砲台和歌山市C
 
(廃)海軍聴音所和歌山市昭和16?C
 
熊野大橋新宮市三重/(南牟婁)紀宝町昭和10→昭和46新橋併設・上下分離B
 
(旧)岡阪隧道田辺市(西牟婁)上富田町B
 
小野坂隧道田辺市(日高)みなべ町<南部川村>B
 
川中口発電所 取水堰堤田辺市C
 
川中口発電所田辺市C
 
柱本の手堀り隧道橋本市明治23頃B
 
学文路駅舎,九度山駅舎橋本市(伊都)九度山町大正13C
 
白木隧道(有田)広川町C
 
龍之渡井(伊都)かつらぎ町A
 
中谷川サイフォン(伊都)かつらぎ町国登録C
 
中古沢橋梁(伊都)九度山町昭和 3B
 
丹生川橋梁(伊都)九度山町大正14C
 
九度山駅舎,学文路駅舎(伊都)九度山町橋本市【同左】C
 
高野山駅舎(伊都)高野町昭和 5国登録B
 
(廃)池田隧道(那賀)打田町町指定B
 
(旧)岡阪隧道(西牟婁)上富田町田辺市B
 
湯崎隧道(西牟婁)白浜町C
 
(旧)日置大橋(西牟婁)日置川町C
 
市江埼灯台(西牟婁)日置川町B
 
里川隧道(東牟婁)<(西牟婁)>串本町C
 
樫野埼灯台,(旧)官舎(東牟婁)<(西牟婁)>串本町燈B/国登録(官舎)A
 
潮岬灯台(東牟婁)<(西牟婁)>串本町燈AA
 
赤木川橋(東牟婁)熊野川町C
 
太田川波止群(東牟婁)那智勝浦町C
 
那智発電所(東牟婁)那智勝浦町C
 
(旧)由良洞隧道(日高)日高町・由良町A
 
高津尾発電所(日高)日高川町<中津村>A
 
小野坂隧道(日高)みなべ町<南部川村>・田辺市B
 
衣奈隧道(日高)由良町B
 
(旧)由良洞隧道(日高)由良町・日高町A
 
由良港 防波堤(日高)由良町A
 
 

転載元: OPTC土木工学科~建設環境

[転載]三重県の土木遺産

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名称 市町村 形式 完成年 ランク
 
 
片田貯水池 堰堤津市アースダムB
 
一身田駅舎津市木建造物(切妻屋根)C
 
贄崎灯台津市RC灯台(四角)B
 
津市 水道資料館/片田貯水池 (旧)管理事務所津市木建造物(半切妻屋根)C
 
片田貯水池 取水塔,取付橋津市RC造(円筒形)、鋼トラスC
 
高瀬橋伊賀市<上野市>石桁(一部C): 沈下橋大正 3C
 
五月橋伊賀市<上野市>
奈良/(山辺)山添村鋼プラットトラス(平行弦,下路)昭和 3C
 
桑町跨線橋(西平尾拱渠)伊賀市<上野市>煉瓦アーチB
 
烏谷川橋梁伊賀市<(阿山)伊賀町>煉瓦斜拱渠(同ポータル)C
 
第二暗渠(小田カルバート)伊賀市<上野市>石桁C
 
(廃)長野隧道伊賀市<(阿山)大山田村>(安芸)美里村石トンネル(石ポータル)B
 
阿保発電所伊賀市<(名賀)青山町>木建造物(切妻屋根)C
 
伊賀上野駅舎/(旧)上野駅舎伊賀市<上野市>木建造物(切妻屋根)C
 
上野市駅舎/(旧)上野町駅舎伊賀市<上野市>木モルタル建造物(腰折屋根の直交,2階建)B
 
上野市上水道水源地 (旧)送水機関室伊賀市<上野市>RC建造物(切妻屋根)C
 
宮川橋梁伊勢市・(度会)小俣町鋼ダブルワーレン・トラス(平行弦,上路,煉瓦橋脚)A
 
宇治山田駅舎伊勢市RC建造物(ろく屋根,3階建)A
 
野尻橋,鎌田橋いなべ市<(員弁)北勢町・藤原町>RC桁昭和 5(鎌田)、昭和10(野尻)C
 
明智川拱橋いなべ市<(員弁)員弁町>Cブロックアーチ大正 5B
 
六把野井水拱橋いなべ市<(員弁)員弁町>Cブロック斜拱渠(スパンドレル部はC)大正 5A
 
(廃)坂下隧道尾鷲市煉瓦トンネル(同ポータル)C
 
(旧)尾鷲隧道尾鷲市・(北牟婁)海山町煉瓦トンネル(同ポータル)B
 
大崖川拱渠,大和街道橋梁(架道橋)亀山市<(鈴鹿)関町>煉瓦拱渠((大崖川)石ポータル、(大和街道)煉瓦+石ポータル)A
 
市場川橋梁,第一六五号橋梁(架道橋)亀山市<(鈴鹿)関町>煉瓦拱渠(同ポータル)B
 
(再現)鈴鹿隧道(上り線/関方)亀山市<(鈴鹿)関町>滋賀/甲賀市<(甲賀)土山町>Cトンネル(Cポータル)C
 
加太トンネル亀山市<(鈴鹿)関町>煉瓦トンネル(石+煉瓦ポータル)A
 
坊谷トンネル亀山市<(鈴鹿)関町>煉瓦トンネル(煉瓦+石ポータル)C
 
安濃田トンネル亀山市煉瓦トンネル(同ポータル)B
 
鬼ヶ城歩道トンネル/(旧)木本隧道熊野市煉瓦トンネル(同ポータル)大正15A
 
高尾谷隧道熊野市Cブロックトンネル(Cポータル)B
 
志原橋防潮水門熊野市・(南牟婁)御浜町石+C水門C
 
南大手橋桑名市RC桁C尾張大橋桑名市<(桑名)長島町>愛知/(海部)弥富町鋼ランガートラス(下路)A
 
伊勢大橋桑名市鋼ランガートラス(下路)A
 
木曽川・揖斐川導流堤桑名市石導流堤明治23(木曽川)明治42(揖斐川)C
 
諸戸水道 貯水池・跡桑名市煉瓦水槽B
 
(旧)多度変電所桑名市<(桑名)多度町>煉瓦建造物(切妻屋根)大正 8C
 
大王埼灯台志摩市<(志摩)大王町>RC灯台(円形)C
 
深谷水道志摩市<(志摩)志摩町・大王町>開削運河A
 
菅島灯台鳥羽市(菅島)煉瓦灯台(円形)A
 
(旧)中野瀬橋松阪市<(飯南)飯高町>RC桁昭和 4C
 
乙栗子橋松阪市<(飯南)飯高町>RCラーメン(石橋脚)B
 
松崎橋松阪市鋼桁(上路,石柱橋脚)C
 
津留橋松阪市・(多気)多気町鋼ワーレントラス(ポニー平行弦,下路)C
 
櫛田川河口突堤松阪市石導流堤(玉石積)B
 
波多瀬発電所 取水堰堤松阪市<(飯南)飯南町>練積C堰堤(全面溢流式)B
 
末広橋梁四日市市鋼PG(跳開=ケーブル型,下路)A
 
四日市旧港防波堤(旧船溜波除堤)四日市市石防波堤B
 
四日市港 北突堤上部防潮壁(四日市旧港防波堤,潮吹き防波堤)四日市市石防波堤(たたき,消波式)A
 
(廃)長野隧道(安芸)美里村伊賀市<(阿山)大山田村>B
 
香良洲大橋(一志)香良洲町RC桁C
 
二雲橋(一志)白山町RC充腹アーチ(充腹は表面のみ=板状アーチ)昭和 9C
 
おちあい橋(中電めがね橋)(一志)美杉村RC開腹アーチ(円形開口部)C
 
向谷水路橋(竹原発電所)(一志)美杉村RC開腹アーチ(ヴォールト+板)C
 
両郷橋(北牟婁)紀伊長島町RC桁C
 
江ノ浦歩道トンネル他,紀伊長島の煉瓦トンネル群/(旧)長嶋,海野,道瀬隧道(北牟婁)紀伊長島町煉瓦トンネル(同ポータル)B
 
(旧)尾鷲隧道(北牟婁)海山町・尾鷲市B
 
脇谷橋/(旧)神瀬橋(多気)大台町煉瓦アーチB
 
(廃)舟木橋(多気)大台町(度会)大紀町<大宮町>鋼ワーレントラス(平行弦,上路,煉瓦橋脚)B
 
宮川橋梁(多気)大台町鋼ワーレントラス(平行弦,上路)C
 
津留橋(多気)多気町・松阪市C
 
領内橋(多気)宮川村鋼プラットトラス(平行弦,ピン結合,下路,石橋脚)大正13B
 
(旧)陸軍第七通信隊 給水塔(多気)明和町RC塔(円筒形)C
 
猫谷なわだるみ(砂防)堰堤群(三重)菰野町巨石空積堰堤B
 
朝明川二号(砂防)堰堤(三重)菰野町巨石空積堰堤B
 
朝明川一号(砂防)堰堤(三重)菰野町練積C堰堤C
 
千草発電所(三重)菰野町木建造物(切妻屋根)C
 
熊野大橋(南牟婁)紀宝町和歌山/新宮市鋼ワーレントラス(曲弦,下路,一部ポニー)昭和10→昭和46新橋併設・上下分離B
 
 
大里発電所 取水堰堤(南牟婁)紀宝町練積C堰堤(全面溢流式)B
 
紀州鉱山 選鉱場・跡(南牟婁)紀和町RC造B
 
緑橋防潮水門(南牟婁)御浜町石水門(アーチ部: 煉瓦)A
 
志原橋防潮水門(南牟婁)御浜町・熊野市C
 
落瀬橋(度会)大紀町<大宮町>鋼PG(カンティレバー,上路,煉瓦橋脚)明治(橋脚)→昭和12(PG)C
 
(廃)舟木橋(度会)大紀町<大宮町>(多気)大台町B
 
棚橋隧道(度会)大紀町<紀勢町>・南島町C(改修?)トンネル(C(改修?)ポータル)C
 
宮川橋梁(度会)小俣町・伊勢市A
 
棚橋隧道(度会)南島町・大紀町<紀勢町>C
 
野見坂隧道(度会)南島町・度会町煉瓦+Cトンネル(同ポータル)C
 
野見坂隧道(度会)度会町・南島町C
 
 

転載元: OPTC土木工学科~建設環境

[転載]東トルキスタン / ウイグル族大弾圧 (5-1)

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高評価 件, 低評価 2
 
75zyouihannさんが 2007/01/31 にアップロード
つづき ↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=Fj_5rY5tQuY

http://www.ch-sakura.jp/
日本文化チャンネル桜
H181114報道(H181031収録)
 

評価の高いコメント

  • 現代のナチス政権こと中国共産党。
    2発の核が落とされた日本は「唯一の原爆被爆国」と思われている ­人が多いと思いますが違います。
    東トルキスタン(現中国ウイグル自治区)では中国侵略後に50発 ­もの核実験が中国政府によって行われています。
    ウイグル人居住区からたった10Kmという場所で核実験を行いま ­した。死者数は最低で75万人とも言われています。
  •  
  • 立ち上がれ! 日本人よ!
  • 民主党なんかに日本を任せるな!!
    日本が中国、韓国に乗っ取られてしまうぞ!!
    中国こそがテロ大国だ!!
    市ね! 中国人どもめ!!
ウイグルでの中国人による人間狩り   Man hunting by Chinese in Uighur2:12ウイグルでの中国人による人間狩り   Man hunting by Chinese in Uighurユーザー: saru121445,998 回再生 中国の嘘 「テロリスト」と呼ばれたウイグル女性8:47中国の嘘 「テロリスト」と呼ばれたウイグル女性ユーザー: zdblr45,947 回再生 新疆ウイグル暴動の戦慄真相 /ラビア・カーディル7:50新疆ウイグル暴動の戦慄真相 /ラビア・カーディルユーザー: khmgbm01181,738 回再生 中共によるウイグル人無差別逮捕の光景10:22中共によるウイグル人無差別逮捕の光景ユーザー: SIRODASUKI8,694 回再生 2/3【イリハム・マハムティ】東トルキスタンの歴史と中共の弾圧[H21/7/8]15:062/3【イリハム・マハムティ】東トルキスタンの歴史と中共の弾圧[H21/7/8]ユーザー: SakuraSoTV18,817 回再生 チベットにおける中国軍の蛮行1:39チベットにおける中国軍の蛮行ユーザー: Taepodong2572,588 回再生 【ウイグル】中国の核実験 潜入調査 その4 【シルクロード】6:39【ウイグル】中国の核実験 潜入調査 その4 【シルクロード】ユーザー: hdtk5511,341 回再生 オランダ人慰安婦について6:10オランダ人慰安婦についてユーザー: gargogargo25,230 回再生 1/4【討論!】今日のウイグルは明日の台湾、明後日の日本[H21/7/17]15:061/4【討論!】今日のウイグルは明日の台湾、明後日の日本[H21/7/17]ユーザー: SakuraSoTV21,234 回再生 なぜ私はグローバル資本主義の罠に気づかなかったのか5:02なぜ私はグローバル資本主義の罠に気づかなかったのかユーザー: Yvonne862754,079 回再生 中国共産党の正体PART1-29:59中国共産党の正体PART1-2ユーザー: kisaragijirou57,856 回再生 ウイグル ウルムチ Uyghur  Uygur  新疆 核試験 Atom Bomb7:04ウイグル ウルムチ Uyghur Uygur 新疆 核試験 Atom Bombユーザー: asanbol16,977 回再生 ウイグルにおける中国政府の報道と海外報道との違い5:17ウイグルにおける中国政府の報道と海外報道との違いユーザー: saru12114,507 回再生 中国の教科書と現状の痛いところをつっこむ 5-19:49中国の教科書と現状の痛いところをつっこむ 5-1ユーザー: saburou2030479,013 回再生 【侵略爆進中】4年後には日本は消える!?【中共】2:06【侵略爆進中】4年後には日本は消える!?【中共】ユーザー: o2taiji36,958 回再生 中国に侵略されたガボン共和国 1 25:20中国に侵略されたガボン共和国 1 2ユーザー: metaphysicals13,940 回再生 東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)における中国共産党の弾圧2:21東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)における中国共産党の弾圧ユーザー: tailofphoenix124,348 回再生 中国のハニートラップに気を付けろ!誰もがひっかかるこの手口 福田もやられたかも9:55中国のハニートラップに気を付けろ!誰もがひっかかるこの手口 福田もやられたかもユーザー: SingLikeGuccies154,123 回再生

転載元: tearface

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