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[転載]韓国の違法「李承晩ライン」による竹島の違法占拠

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1952年、韓国は資源保護を理由に李承晩ラインを設定し、ラインを超えた日本漁船は徹底的に拿捕された。韓国は李ラインを盾に日本漁船に対する銃撃拿捕などを繰り返し4000人近い日本漁民が拘留された。しかも其の過程で、44人もの日本人漁民が死傷している。

 

李承晩ライン

 
韓国による日本船舶の拿捕
李承晩ライン反対デモ
 李承晩ライン(りしょうばんライン、이승만 라인/李承晩 라인)は、昭和27年(1952年1月18日大韓民国(韓国)大統領李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線(평화선)」と宣言された。なお、国際的な非難を浴びると共に、韓国の信頼を失墜した。

 

概要

 海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものであるが、本当の狙いは韓国で獨島(日本の漢字では「独島」)と呼ばれている竹島対馬の領有を主張するためであるとの主張が匿名掲示板などで間々見られる。
 これに違反したとされた漁船(主として日本国籍)は韓国側による臨検拿捕・接収の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった第一大邦丸事件など)。
 日米側は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。日韓漁業協定の成立(1965年)によりラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの部屋に30人も押し込まれるなどの劣悪な抑留生活を強いられ、抑留期間は数年間におよんだ
 李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。また、韓国政府は日本人抑留者の返還と引き換えに、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還を拒否するとともに日本国内に解放するよう要求した。

背景

 韓国は第二次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)に勝戦国として参加することを希望していたが、連合国韓国臨時政府承認した事実がなく、イギリスアメリカによって拒否された。また、対馬波浪島竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であることは明白であったし、波浪島は実在しなかった。韓国は日本国との平和条約での日本の放棄領土に波浪島、竹島を追加すること及びマッカーサー・ラインを継続することを要望したが、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて、韓国の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっていた。
 韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効によりマッカーサーラインの消滅と日本国の主権回復がなされる3ヶ月前の1952年1月18日に、突如として李承晩ラインの宣言を行った。

国際法上の評価

 国際法は国家による反復履行及び法確信により慣習法が成立する。よって、1951年当時において排他的経済水域又はそれに類する慣習法及び当該海域での拿捕等の行為に関する慣習法が成立していたかが問題となる。
 なお、現在では排他的経済水域における生物資源の探査・保有・管理のために必要な措置として、乗船、検査、拿捕及び司法上の手続等を取ることができるとされている(国連海洋法条約第73条)が、条約は不遡及であり[6]1994年に発効した国連海洋法条約を1951年の李承晩ラインに適用し正当化することはできない。

トルーマン宣言

 1945年9月28日にアメリカのトルーマン大統領は、「公海の一定水域における沿岸漁業に関する大統領宣言」を行った。この宣言は、「アメリカ国民のみが利用していた水域をアメリカの統制と管理下におくことが適当であり、他国民とともに共同利用されてきた水域は他国と合意された規程により統制管理される」としており、アメリカの資源の将来政策を述べるにとどまった。

南米諸国による宣言と欧米諸国の抗議

 トルーマン宣言に触発され、アルゼンチン(1946年)、パナマ(1946年)、チリ(1947年)、ペルー(1947年)、コスタリカ(1948年)、エルサルバドル(1950年)、ホンジュラス(1951年)、チリ・ペルー・エクアドル(1952年)が漁業資源に関する宣言を行ったが、トルーマン宣言と異なり自国民による排他的な漁業独占権を一方的に設定するものであった。アルゼンチン、チリ、ペルー、ホンジュラス等は自国の宣言を正当化するためにアメリカのトルーマン宣言を援用したが、アメリカはこれら宣言に対して抗議を行っている
 1948年7月2日のアルゼンチンに対する抗議文は「アメリカ合衆国は、アルゼンチンの宣言に含まれている原則は、アメリカ合衆国の宣言と極めて異なっており、国際法の一般に認められた原則に違反しているように思われることを指摘したい」としており、他国への抗議も同様であった。フレガー国務省法律顧問は1955年のニューヨークでの講演で、トルーマン宣言が漁業独占権を主張しているとするのは「誤解」であるとしている。
 しかし、これらのアメリカの抗議にも関わらず1954年にペルーはパナマ船籍船を拿捕し、エクアドルは1955年にアメリカ漁船に発砲・拿捕している。
 イギリスは3海里を越える水域の排他的管轄権を認めないと1948年にチリ、ペルーに抗議を行っており、1952年にもチリ、エクアドル、ペルーの共同宣言にもアメリカと共同で抗議している。フランスは、1951年の覚書においてメキシコ、ペルー等の国名を挙げたあとに、一方的宣言により公海で主権を拡張し、他の国々の権利をおかしてはならないとした。

国際法学者及び国際法委員会

 1951年の国際法委員会における大陸棚及び関連事項についての条約の草案では、「沿岸国の領海より100海里以内にある場合には、沿岸国は資源保存の規制に参加し得る」とし沿岸国の特殊的地位を認めたが、「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めていない。1953年の国際法委員会の草案も同様であった。
 国際法学者のハーシュ・ローターパクトは1952年の国際法委員会の席上「いかなる国際裁判所もエルサルヴァドルの領海200海里の主張や他国の同様な最近の主張を認めないであろう」とし、フランソアも同様の発言をしている。

韓国の主張とアメリカの抗議

 韓国は1952年1月27日に李承晩宣言韓国政府声明を発表し李承晩ラインを国際法において確立されたものとした。その主要な主張は以下のとおりである。
  • トルーマン宣言、メキシコ、アルゼンチン、チリ、ペルー及びコスタリカ諸国政府による宣言と同性格である
  • マッカーサーラインは有効に存続している
  • 接続水域の地位は国際法上確立しており、接続水域において漁業の絶対的自由は認められない
 しかし、李承晩ラインがトルーマン宣言と性格が異なることはアメリカによる南米諸国の宣言への抗議でも明らかであり、ラスク書簡によりマッカーサーラインの継続はアメリカから拒否されている。韓国政府は60海里に及ぶ漁業独占権を接続水域として整理しているが、当時のアメリカ、イギリスが主張する接続水域は12海里(22km)であり、フランスは20kmであった。また、接続水域とは、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域を示しており、漁業独占のための水域ではなかった。
 1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書によれば、アメリカ政府竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達している

問題解決への道

問題解決には長い年月を要した。その原因は、
  1. 日韓両国に正式な国交がなかったこと、
  2. 国交正常化交渉は賠償請求権を巡り紛糾し、遅々として進まなかったこと
  3. アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入してこなかったため
である。
 そうして徒に時間が流れていった。冷戦初期の中、日本国と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義自由主義)を旨とする西側諸国に属したが、李承晩は1910年日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行った。
 李承晩ライン発表の直後、1952年2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権は国交樹立を目指した交渉を開始したが、両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じたが、李承晩ライン自体は存続させ、1960年の李承晩失脚後もこの状態が続いた。
 
 1963年、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。そのためには資本と技術を必要とした。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこから調達するのかが悩みの種であった。朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。
 一方、日本国政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで基本条約の締結がなしえると判断したところで漁業協定を締結し、1965年に李承晩ラインは廃止された。
 
 
 

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▲日本漁船のだ捕防止を行う巡視船 


竹島
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▲韓国警備艇
 
竹島は多くの文献や古い地図において「松島」と記載されており、古くは「松島」の名でよく知られていました。我が国は、明治38年1月の閣議決定、それに続く島根県告示による竹島の島根県への編入措置により、近代国家として竹島を領有する意思を再確認しました。
戦後の占領下、連合国軍総司令部*1の覚書により、竹島には我が国の行政権が行使し得ず、また、我が国漁船の操業区域を規定した「マッカーサーライン*2」の外側にあったことから、漁船も付近海域で操業することができませんでした。
韓国は、サンフランシスコ平和条約の締結に伴う、マッカーサーラインの撤廃前に、自国水産業の保護と称して昭和27年に「海洋主権宣言*3」を発し、竹島を取り込んだ「李承晩ライン*4」を設定し、日本漁船の締め出しを行いました。
政府は、直ちに韓国側へ抗議を行い、海上保安庁では、銃撃をも伴う韓国側の激しい取締りから我が国漁船を保護するため、政府方針に基づき、巡視船を派遣し、漁船と韓国警備艇との間に割って入り煙幕を使用したり、巡視船が漁船を横抱き又はえい航して脱出する、あるいはだ捕寸前の漁船に接舷して、最悪でも乗組員だけは救出する等の困難な作業により、懸命にだ捕防止に努めました。
韓国は、昭和29年7月から、竹島に警備隊員を常駐等させるとともに、宿舎、灯台、監視所、アンテナ等を設置し、平成9年11月には、500トン級船舶が利用できる接岸施設を、平成10年12月には、有人灯台を完工させるなど、施設を年々増設しながら、現在に至っています。
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▲竹島




 政府は、竹島は歴史的事実に照らしても、かつ、国際法上も明らかに我が国固有の領土であるという一貫した立場を堅持する一方、竹島問題は平和的に解決されるべきであり、外交ルートを通じて粘り強く解決を図る方針を示しています。
海上保安庁では、この政府方針に従い、竹島周辺海域に常時巡視船を配備して監視を続けるとともに、我が国漁業者の安全確保の見地から被だ捕の防止指導等を行っています。






転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


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